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東京都文京区の歴史
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所在地 文京区音羽1-7-1

   鳩山会館

 鳩山家の建物  東京大学教授(近代建築史) 藤森勲信

 

 文京区の音羽の丘の上に鳩山邸の美しい洋館が姿を現わしたのは、関東大震災の翌大正13年(1924)である。

 

 鳩山家は、衆議院議長の和夫(1856~1911)、総理大臣となった一郎(1883~1959)、外務大臣をつとめた威一郎(1918~1993)、さらに衆議院議員の由紀夫(1917生)、(郁夫1918生)、と4代にわたり指導的な政治家を生み育てた。

 

 この洋館を建てたのは一郎で、ここを舞台に、戦後政治の画期となた自由党(現・自由民主党)の創設が計られ、また首相として決断した日ソ国交回復の下準備も行われている。



 設計を手がけたのは一郎の友人の岡田信一郎(1883~1932)で、大正・昭和初期を代表する建築家として知られる。

 

 一郎の没後、傷みがひどくなったけれど、このたび大修復を加え、往年の輝きを回復した。修復に当たり、一郎、その夫人で教育者の薫、威一郎を記念する部屋を設け、公開されることになった。バラの庭を前に建つイギリス風の外観、ハトをモチーフとするステンドグラス、アダムスタイルの応接室、朝倉文夫作の和夫、春子夫妻像、などなど見るべきものは多い。



               Hatoyama Family Home
 The Hatoyama family's beautiful Wastern-style residence was built atop a hill in Bunkyo Ward's Otowa in 1924,the year following the Great Kanto Earthquage.
 The Hatoyama family spawned four generations of statesmen:Kauo(1856-1911),Speaker of the House of Representatives:Ichiro(1883-1959),Prime  Minister:Iichiro(1918-1993),Minister of  Foreign Attairs:and Yukio(1947-) and Kunio(1948-) ,members of the Hose of Representatives.
 This house was built by Ichiro and it was here that the formation of the Liberal Party (Presently) the Liberal Democratic Party,a landmark in postwar politics,was planned.It was also here that preliminaty preparations were made for the restoration of diplomatic relations with the former Soviet Union,a decision made by Ichiro during his tenuer as prime minister.
 The house was designed by Ichiro's friend Shinichiro Okada (1883-1932),who is known as a representative architect of the Taisho and early Showa periods.
 After Ichiro's death,the house,which had fallen into disrepair,was given a major renovation and restored to its former splendor.On this occasion,memorial rooms were established in honor of Ichiro,his wife Kaoru,who was also ana educator,and Iichiro,and house was opend to the public.The home has much worth seeing,includingana English-style drawing room,and sculptures of Kazuo and his wife. Haruko. by Fumio Asakura.
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所在地 文京区関口2-11・目白台1-1

  胸突坂
 目白通りから蕉雨園(もと田中光顕旧邸)と永青文庫(旧細川下屋敷跡)の間を神田川の駒塚橋に下る急な坂である。坂下の西には水神社(神田上水の守護神)があるので、別名「水神坂」ともいわれる。東は関口芭蕉庵である。
 坂がけわしく、自分の胸を突くようにしなげれば上れないことから、急な坂には江戸の人がよくつけた名前である。
 ぬかるんだ雨の日や凍りついた冬の日に上り下りした往時の人々の苦労がしのばれる。
 平成10年(1998)3月 文京区教育委員会





所在地 文京区関口2-2-7

  目白坂
 西方清戸(清瀬市内)から練馬経由で江戸川橋北詰にぬける道筋を「清戸道」といった。主として農作物を運ぶ清戸道は目白台地の背を通り、このあたりから音羽谷の底地へ急傾斜で下るようになる。
 この坂の南面に、元和4年(1618)大和長谷寺の能化秀算僧正再興による新長谷寺があり本尊を目白不動尊と称した。
 そもそも三代将軍家光が特に「目白」の号を授けたことに由来するとある。坂名はこれによって名付けられた。『御府内備考』には「目白不動の脇なれば名とす」とある。
 かつては江戸時代「時の鐘」の寺として寛永寺の鐘とともに庶民に親しまれた寺も明治とともに衰微し、不動尊は豊島区金乗院にまつられている。
  目白台の空を真北に渡る雁 
     稀に見る雁の四・五十羽かも  窪田空穂(1877-1967)
 昭和63年(1988)3月 東京都文京区教育委員会



所在地 文京区小日向2・音羽1

  八幡坂
 『八幡坂は小日向台3丁目より屈折して、今宮神社の傍らに下る坂をいふ。安政4年(1857)の切絵図にも八幡坂とあり。』と、東京名所図会にある。
 明治時代のはじめまで、現在の今宮神社の地に田中八幡宮があったので、八幡坂とよばれた。坂上の高台一帯は「久世山」といわれ、かつて下総関宿藩主久世氏の屋敷があった所である。
 平成5年(1993)3月 文京区教育委員会


所在地 文京区目白台1-1-1
 
  永青文庫
 この地は、中世室町幕府の管領家の一門であり肥後熊本54万石の大名であった細川家の下屋敷跡である。細川家がここに入ったのは幕末で、当時は3千坪であったが、その後少しずつ拡張し、新江戸川公園・永青文庫を含む神田上水から目白通りに及ぶ約3万8千坪の広大な敷地であった。
 永青文庫は、南北朝時代から現在に至る歴代細川家25代の間に蒐集された細川家の歴史資料や文化財、及び24代護立氏が蒐集した近代日本画、中国の考古品、陶磁器などを以って昭和25年(1950)に設立された。
 昭和47年(1972)に登録博物館となり一般に展示公開されている。
 昭和62年(1987)3月 文京区脅威食う委員会



所在地 文京区目白台1-1-9

  水神社
 祭神は、速秋津彦命・速秋津姫命・応神天皇
 創建の年代は明かでない。
 『江戸砂子』には、「上水開けてより関口水門の守護神なり。」とある。
 わが国最古の神田上水は、徳川家康の命により、大久保主水が開いた。井頭池からの流れを、目白台下野現大滝橋のあたりに、堰(大洗堰)を築き、水位をあげて上水を神田、日本橋方面に通じた。
 伝えによれば、水神が八幡宮社司の夢枕に立ち、「我水伯(水神)なり、我をこの地に祀らばの守護神となり、村民を始め江戸町ことごとく安泰なり」と告げたのでここに水神を祭ったという。
 上水の恩恵にあずかった神田、日本橋方面の人たちの参詣が多かったといわれる。また、このあたりは田園地帯で、清らかな神田上水が流れ、前には早稲田田んぼが広がり、後には目白台の椿山を控え、西には富士の姿も美しく眺められて、江戸時代は行楽の地であった。
 昭和58年(1983) 文京区教育委員会








所在地 文京区関口2-1

  江戸川公園
 江戸川橋を起点として神田川沿いに西方約1キロメートルの地域は江戸川公園、新江戸川公園の中間に松尾芭蕉ゆかりの「関口芭蕉庵」を有する風致地区である。俳人松尾芭蕉(1644-1694)は延宝5年(1677)(34才)から延宝8年(1680)までの約4年間に亘り此処に居住して神田上水の改修工事にたずさわったと言われている。俳聖と神田上水工事とは、まことに妙な取り合わせのように思われるが、彼の前身が伊賀国(三重県)藤堂藩の武士であったことや、藤堂藩(藩祖藤堂高虎以来築城土木、水利の技術に長じていた)が当時幕府から神田上水の改修工事を命じられていたことなど考え合わせると、彼が工事監督として、この改修工事に関係したことも納得がいくのである。





 江戸川公園内には『江戸川公園碑』、『神田上水取水口の石柱』、『神田上水取水口大洗堰跡』、『大井玄洞翁の胸像』、『大洗堰の由来碑』があります。


所在地 文京区関口2-1 (江戸川公園)

 井の頭池を源流とするわが国最初の神田上水は、関口の大洗堰(現在の大滝橋あたり)で水位をあげ、上水路(白堀)で水戸上屋敷(現後楽園一帯)に入れた。そこから地下を樋で、神田、日本橋方面に給水した。
 この大洗堰の取水口に、上水の流水量を調節するため「角落」と呼ばれた板をはめ込むための石柱が設けられた。
 ここにある石柱は、当時のもので、昭和8年(1933)大洗堰の廃止により撤去されたものを移した。
 なお、上水にとり入れた余水は、お茶の水の堀から隅田川へ流された。
 昭和58年(1983)12月 文京区役所


所在地 文京区関口2-1 (江戸川公園)

文京区指定史跡
 神田上水取水口大洗堰跡

 徳川家康の江戸入り(天正18年〔1590〕)の直後、井の頭池から発する流れに、善福寺池、妙正寺生けの流れを落合であわせ、関口で取水して水路を定めたのが神田上水である。
 大洗堰で水は二分され、余水は江戸川に落し、他は上水として水戸殿に給水し、神田橋門外付近で二筋に分かれた。1つは、内堀内の大名屋敷に給水し、他の1つは本町方面、日本橋で北の町屋に給水した。
 大正末年には、水質・水量とも悪くなり、昭和8年(1933)に取水口はふさがれた。
 上水道として最も古い神田上水の、取水口である大洗堰の跡は、永く歴史に残したいものである。
 昭和62年(1987)3月 文京区教育委員会



所在地 文京区関口2-1 (江戸川公園)

   大井玄洞翁の胸像 
 生誕 安政元年(1855)加賀藩金沢に生まれる
 明治33年(1900)より小石川区(現文京区)在住
 逝去 昭和5年(1930)8月15日 伊豆にて没す(享年75才)
江戸川(現神田川)の治水事業は沿岸の人々にとって、永年の願いであった。明治43年(1910)の大洪水の後、玄洞翁は、人々の願いの実現に努力し、大正2年(1913)護岸改修に着工させ、大正8年(1919)に完成させた。
人々は、置きなの功績をたたえ、永くその徳を伝えるために、昭和3年(1928)、江戸川公園内の当所に胸像を建てた。
 昭和58年(1983)12月 文京区役所



所在地 文京区関口2-1 (江戸川公園)

 かって、この地には神田上水の堰があり、古来より風光明媚な江戸名所として知られていました。上水の改修工事には俳人松尾芭蕉も関与し、その旧居(関口芭蕉庵)は400m程上流に復元されています。
 大正8年(1919)、東京市はこの地を江戸川公園として整備し、史跡(大洗堰)の保存に努めましたが、昭和12年(1937)になり江戸川(神田川)の改修により失われたので、翌昭和13年(1938)、堰の部材を再利用して由来碑を建てました。
 次の碑文は、その文面です。由来碑はすでに失われましたが、近年この碑文のみが見つかりましたのでここに設置致しました。
 平成3年(1991)3月 文京区役所


    神田上水舊蹟碑記
徳川氏府ヲ江戸ニ開クノ初大久保主水忠行命ヲ受ケテ上水開設ノ工ヲ起シ多摩郡井之頭池ノ水ヲ用ヒ此処ニ堰ヲ設ケテ神田ヨリ市中ニ給水ス神田上水即チ是ナリ此処ハ地勢高峻老樹翁尉タル目白臺下ノ景勝ニ位シ亦四季ノ景物ニ富メルヲ以テ古来江戸名所トシテ聞ユル事久シ俳聖芭蕉嘗テ上水道修築ニ従ヒテ此処ニ寓シ遺阯今ニ傳ヘテ風流ノ余韻ヲ慕フモノ尠カラズ
大正八年(1919)附近水道附属地ヲ江戸川公園ト為シ上水史蹟ノ保存ニ努メシガ昭和12年(1937)3月江戸川改修ノ工成ルニ至ツテ遂ニ舊観ヲ失ヘリ仍テ茲ニ舊洗堰遺材ノ一部ヲ用ヒ碑ヲ建テ由来ヲ刻シ以テ追憶ノ資トナス
 昭和13年(2001)3月 東京市


所在地 文京区関口2-11-3

  関口芭蕉庵
 この地は、江戸前期の俳人松尾芭蕉が、延宝5年(1677)から延宝8年(1680)まで、神田川改修工事に参画し、「龍隠庵」と呼ばれる庵に住んだと伝えられている。後に世人は「関口芭蕉庵」と呼んだ。
 享保11年(1726)、芭蕉野33回忌に当たり、芭蕉の木像を祀る芭蕉堂が建てられた。その後、去来・其角・嵐雪・丈草の像も堂に安置された。
 芭蕉は、早稲田田んぼを琵琶湖に見立て、その風光を愛したと言われている。そこで、寛延3年(1750)宗瑞・馬光らの俳人が、芭蕉の真筆「五月雨にかくれぬものや瀬田の橋」の短冊を埋めて墓とした。この墓を「さみだれ塚」と称した。塚は芭蕉堂の近くにある。
 芭蕉庵の建物は、昭和13年(1938)3月、近火で類焼したが、昭和13年(1938)8月再建された。しかし、昭和20年(1945)5月の戦災で類焼した。
 敷地内には、芭蕉堂・さみだれ塚・朱楽菅江歌碑・伊藤松宇の句碑などがあり、往時をしのぶことができる。
 平成10年(1998)3月 文京区教育委員会



 関口芭蕉庵地内には『芭蕉堂』、『芭蕉句碑』、『朱楽菅江狂歌辞世碑』、『伊藤松宇句碑』、『さみだれ塚』があります。



所在地 文京区関口2-11-3 (関口芭蕉庵)

 素堂の弟子 馬光が中心となり
五月雨にかくれぬものや 瀬田の橋
の芭蕉の短冊を埋めて墓とした
 寛延3年(1750)


所在地 文京区関口2-11-3 (関口芭蕉庵)

 真中に富士 聳えたり國の春 
          昭和10年(1935)


所在地 文京区関口2-11-3 (関口芭蕉庵)

執着の心や 娑婆に残るらん
 吉野の桜 更科の月

  寛政11年(1799)


所在地 文京区関口2-11-3 (関口芭蕉庵)

芭蕉翁の33回忌に木像が出来ここに祀らる
         享保11年(1726)


所在地 文京区本駒込6-16-3

   六義園

 本園は元禄15年(1702)武州川越藩主柳沢出羽守吉保が築造した庭園で、江戸の大名庭園中現存する日本で屈指の名園です。昭和15年(1940)8月、史跡名勝天然記念物保存法によって名勝の指定を受け、昭和28年(1953)4月特別名勝となり、日本でも特に優れた名園として大切に保存されています。
 庭園の形式は江戸時代の庭園にみる所謂回遊式築山泉水庭と呼ばれます。園の中央に池を設け、中島を置き島に妹背山があり、東南部に平坦な芝生、その他の部分には大小多数の築山が起伏し、園の北部に最大の築山藤代峠を設け、各所に桃の茶屋・滝口の茶屋・吟花亭・熱海の茶屋・つつじの茶屋・芦辺の茶屋等あづまやを配しています。その後改修、また今次大戦により焼失したものもあります。またこの庭園の作庭については、吉保自身の培った文芸趣味の思想に基づき、自分から設計7年余りの歳月を費やし池を掘り、山を築き流れを見せて、紀州和歌の浦の景勝を、あるいは「万葉集」や「古今集」から名勝を選び園内に八十八景を写しだすという園の構成です。
 「六義園」の名は、中国の古い書物である毛詩に配されている賦・比・興・風・雅・頌の六義に由来する和歌の六体によるもので、吉保自身「むくさのその」と呼ばせ、館を「六義館」とかいて「むくさのたち」と読ませています。
 このような庭園も吉保が没した後は荒れる一方であったが、文化7年(1810)にいたりざ漸く整備され、明治10年(1877)頃附近の藤堂・安藤・前田の各氏邸とともに、岩崎弥太郎氏の別邸の一部となるに及んで再び昔の美しさを取り戻し、昭和13年(1938)1月岩崎氏から庭園を中心として3万余坪を市民の観賞・休養の地として、東京市に寄贈され同昭和13年(1938)10月東京市の管理のもとに公開され今日にいたっています。 
 東京市

                    RIKUGIEN
 Rikugien was established in 1702 by feudal lord Yanakisawa Yoshiyasu.Who was sell-known for his literary accomplishments.
 The name Rikugien was taken from the six pronciples of composing Japanese waka poetry which were derived from an ancient Chinese book "Mao-Chin".
 It is typical "kai-yu(go-round)" style garden with,88 spots of literary significance arranged  long a path surrounding a pond with an islet.
 Tokyo Metoropolitan Gobernment



六義園は岩崎家別邸だった
 六義園から歩いて2分、不忍通りをはさんだところに日本最大の東洋学の研究図書館、「東洋文庫」があります。平成23年(2011)10月20日に、この東洋文庫のミュージアムが新たにオープンしました。
 ところでこの東洋文庫は、三菱第三代社長の岩崎久弥によって作られたものですが、その建物があるのは、かつては六義園の敷地だったところです。さらには、この六義園はかつて岩崎久弥の別邸として使われていたことがあります。
 柳沢吉保によって造られた六義園は、7代保申の頃に明治維新を迎え、新政府に上地され、173年間にわたる柳沢家別邸も終わりをつげました。その後1878年(明治11年)、三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎が、近隣の藤堂家、前田家、安藤家の土地屋敷とともにこの地を手に入れ、六義園に岩崎家別邸を設けました。岩崎家は1874年(明治7年)に上京し、今の文京区湯島4丁目に居をかまえ六義園の地とは目と鼻の先ほどの所に住んでいました。



大名屋敷を次々と手に入れる岩崎家
 『・・・その後は、さしもの名園も次第に頽廃に傾き、維新後は全く荒蕪に帰したが、岩崎弥太郎は1878年(明治11年)、清澄庭園と同じ頃これを手に入れ、その後されに隣接の藤堂・安藤・前田諸家の邸地を併せ、総計12万坪(約396,000㎡)を合してここに別邸を営んだ。その地域は現在の文京区上富士前、同駕籠町及豊島区巣鴨2丁目、同駒込染井に跨がる広大な土地である。川田小一郎があまり大きすぎるがどうするつもりかと尋ねたところ、岩崎弥太郎は「俺は板橋辺まで買い、国家の役に立つことをやってみるつもり」と語ったという。』
(『岩崎久弥伝』岩崎家の伝記)



岩崎家による庭園の復興
 維新後、幕末の混乱期を経て庭は荒廃していましたが、岩崎家が別邸を設けたことから庭園の本格的な復興が始まりました。その修復工事は弥太郎から弥之助(弥太郎の弟)、久弥(弥太郎の長男)へと受け継がれ、園内には茅葺の「桃の茶屋(現心泉亭)」、「滝見茶屋」、「吟花亭」、岩崎家の熱海の別荘から移築した「熱海茶屋(現吹上茶屋)」、柱がツツジの枝幹で作られた「つつじ茶屋」、「芦辺茶屋」などの建築物も配され、ようやく往時の美しさを取り戻しました。蓬莱島や佐渡の赤石など、園内に配された名石は岩崎時代のものも多く残っています。



「樹木数万本」と園国の「庭石」

 『六義園が弥太郎の在世中どの程度まで復旧工事をすすめたがは明らかではないが、弥太郎の没後、弥之助(弥太郎の弟)は1886年(明治19年)に修復の工を進め、新たに下総の山林(後の「末広農場」)から樹木数万本を移植し、各地から庭石を集めて、往時の景観を復元した。また園内各所に瀟洒な亭榭を建て、六義館の跡には小邸を造築した。』(『岩崎久弥伝』岩崎家の伝記)



弥太郎と庭園
 弥太郎には若い時から庭園の趣味がありました。土佐の井ノ口村(現安芸市井ノ口)の生家には、青年時代につくったという大小の石を日本列島に配した小庭が残っています。
 『吾は性来これという嗜好なけれど、常に心を泉石丘壑に寄す。これを以って憂悶を感ずる時は名庭園を見る。(中略)ひとり加賀邸の庭園は無数の巨巌大石を配置し藤樹点綴して豪宕の趣き深山の風致あり。若し吾に庭園を造るときあればかくの如きものに倣はんと欲す』(『岩崎久弥伝』岩崎家の伝記)
 彼は広大な規模を有して、泉石樹林が自然の風致を示す庭園を好み、特に石を愛しました。庭園の修築に際しては人を派遣して各地の石を集めました。よい石がみつかったという知らせに対する返書が残っています。
 『太湖石十個御買取の旨承知致し候。右は窓外の竹蕪の間に位置するに宜しく、弘大の池畔砌中に撒布羅列するに不適なり。当地にて美濃石は珍重すると聞く。定めて御申越のものは篠島、佐久間辺りよりの出品なるべきか。』(『岩崎弥太郎伝』岩崎家の伝記)



日露戦争と六義園
 1905年(明治38年)10月、日露戦争から凱旋した連合艦隊司令長官東郷平八郎大将をはじめとする将兵6,000人を岩崎家が招待し、この六義園を中心都市一大戦勝祝賀会を催しました。それまで一般には公開されなかったこの六義園が、戦勝ということと久弥氏の国に対する恩顧からか、初めて公開されたことは、庭園の持つ意義から重要な歴史的事実といえます。



高級住宅地「大和郷」
 大正後期から、六義園を含む一帯12万坪に及ぶ岩崎家の地所は、「大和郷」と名づけられた計画的な都市開発により高級住宅地として分譲されました。久弥はその中心にある六義園を1938年(昭和13年)に東京市に寄付しました。 



<当時の様子を各新聞で次のように取り上げています>
 

4月16日付「中外新聞」
 ”柳沢の栄華を偲ぶ六義園、市民に公開 岩崎久弥男、市へ寄贈”
 江戸時代から残る帝都有数の名園本郷区駒込上富士前町の六義園が市の公園として公開されることになった。これは名園として名高い深川の清澄庭園を市に寄贈した岩崎久弥男の所有にかかるもので今回男の好意により寄贈することになったもので総面積3万坪(700万円)、5代将軍綱吉の時、権勢並ぶものなき老中柳沢吉保の下屋敷として元禄年間築造されたもので全国の名木珍石多く園内の十二境八景はそっくりそのまま保存されている。井下公園課長は15日園内を岩崎男と共に一巡したが市ではこの純日本式庭園に続いて隣にスポーツ施設も行い遅くも9月初旬には公開の予定で開園の暁には清澄庭園後楽園と共に帝都の三名園が市民の行楽を待つことだろう。

4月16日付「東京旭新聞」
 ”天下の「六義園」を岩崎男が寄付 市で体位向上に開放”
 帝都第一の名園として海外に喧伝されている清澄庭園15,000坪先に東京市に寄附した岩崎久弥男が今度は国民の体位向上に利用してもらいたいと15日、本郷駒込別邸3万坪(時価700万円)を東京市に寄附申出を行った。
 東京市では市長代理として井下公園課長が岩崎邸を訪問して寄附を受領し、近代的スポーツ公園としての施設を行い600万市民に開放することとなった。
 この別邸は徳川5代将軍綱吉の頃飛ぶ鳥も落とす権勢を誇った老中柳沢出羽守吉保の下屋敷として築造したもので諸侯は先を争って諸国の名木名石を持寄ったので工事は驚くべき短日月で完成し詩歌に所謂六体六義の語に因んで六義園と名づけ園内の十二境八景は、その美麗な風致を天下に誇ったものである。

6月7日付「東京日日新聞」
 六義園が東京市に寄付されたが、これがまた心なきお役所技師によって、コンクリートとペンキとブリキの犠牲になって寄付者の好意を了らしめないように祈るものである。
 公園に「静的」と「動的」あり、日本の明暗は概ね前者に属する。例えば井の頭はいわば詩園であり、瞑想の池であり、さすらいの林道であり、年長者の庭であるべきであった。市に賜ってから、その寂びた池は、調子外れのペンキ塗りボートが徒らに水鳥を騒がせ、安っぽい路燈や標柱や俗っぽい獣の檻は似面非なる「場末日比谷」を造った。ついには児童の健康にもよくないあの冷水のプールを設備した。日本の風景美、建築美を毒するものは、生のままのペンキとセメントである。しかも便利と経済とは、これらを必需品とする。ここにそれらの「考慮されたる適用法」と「真の意味の擬装」が要求されるのではないか。
 オリンピックもすでに迫り、俗悪不体裁な看板、電柱、沿線広告とともに、その建築と造園と舗道と一切が日本的に設備され調和されるべく、その筋のブレインスタッフの協力再検討を要することと思う。
 
1938年(昭和13年)4月27日に寄附受領をした東京市は、園路整備(豆砂利敷)と人止柵設置、および松の手入を行い、同1938年(昭和13年)10月6日開園しました。

 六義園園内には『東京市石碑・内庭大門』、『新脩六義園碑』、『吟花亭跡』、『レンガ外周塀』があります。


所在地 文京区本駒込6-16-3 (六義園)

 江戸時代中期に作庭された文化財庭園に、幕末以降にもたらされた技術を用いたレンガが使われている理由には、この文化財庭園の歴史的な変遷が大きく関わっています。
 江戸時代当時の柳澤家の屋敷範囲と、明治年間以降の岩崎家の敷地とは、文化財庭園として指定された現在の六義園の範囲よりも東西南北にそれぞれ広がっていました。指定文化財範囲から外れた、これらの土地では、日露戦争の祝勝会が開催され、第二次大戦当時には児童向けの科学館なども置かれていました。従って、改修前のレンガ塀は、第二次大戦後に、国指定の文化財として整備する前後の時期に、管理用に構築されたものであり、岩崎家所有当時の外周塀ではありません。しかしながら、柳澤家から岩崎家、そして東京市(府)から東京都へと、所有者や管理者が移り変ってゆく中で、岩崎家が所有していた湯島や本所などの屋敷でも採り入れられた、洋風の意匠であるレンガ塀も、歴史的な変遷を物語る貴重な文化財といえます。


所在地 文京区本駒込6-16-3 (六義園)

 作庭当時、この附近に吟花(華)亭という建物が作られ、お花見をするための場よとして使われていたようです。柳澤吉保の側室、正親町町子(おおぎまちまちこ)は、「松陰日記」という源氏物語風の記録を残しており、中では六義園の様子も多く描かれています。この吟花亭の周囲には桜の花が咲き誇り、吉野山の桜にたとえられています。
 岩崎家の時代にもあらためてここに吟花亭が作られました。今の建物跡は、そのころのものです。


所在地 文京区本駒込6-16-3 (六義園)

  新脩六義園碑しんしゅうりくぎえんひ
 六義園は作られた当時から評判が高く、完成して4年後の宝永3年(1706)10月には、ついには当時の霊元上皇が、六義園の景勝地十二境八景を選び賜り、加えて公家たちの和歌を添えて吉保に下賜しています。上皇が一幕臣の庭園に和歌を贈るというのは極めて異例のことでした。
 これほど評判が高かった六義園ですが、3代目信鴻が没した寛政4年(1792)以後は、ほとんどその利用がなく、荒廃してしまいました。そこで、文化6年(1809)、4代保光は、家臣に命じて復旧工事を行いました。このとき、失われた八十八境の石柱を補いましたが、やはり園内にあった十二境八景の碑はそのほとんどが失われていました。
 この時に建てられたのが、この「新脩六義園碑」です。この石碑の後面にはこの復旧工事の経緯が、また前面には「六義園八景」の名称が記されています。


所在地 文京区本駒込6-16-3 (六義園)

 昭和13年(1938)に、当時の所有者であった岩崎家の岩崎久弥によって、六義園は東京市に寄附されました。この石碑は、その時の記念として建てられたもので、六義園の成り立ちも記されています。その後は公開された庭園として現在に至っています。     
 岩崎家が六義園を所有していたのは明治維新によって政府の上地されたのち、三菱グループの創始者岩崎弥太郎が明治11年(1878)に手に入れたのが始まりです。その後、岩崎久弥の本邸・別邸として使われたり、あるいは後に総理大臣に就任した政治家幣原喜重郎(岩崎弥太郎の女婿)が、一時仮住まいとしていたこともありました。   
 右手の大きな門は「内庭大門」と呼ばれ、岩崎家所有当時の雰囲気を残していますが、現在の門は東京市によって再建されたものです。かつては門をくぐった先のしだれ桜付近に、岩崎家の「御殿」と呼ばれる邸がありました。


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