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東京都文京区の歴史
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所在地 文京区本郷1-26

  東洋学園大学
  


  フェニックス・モザイク「岩間がくれの菫花」
    デザイン 今井兼次(1895~1987)
      建築家、早稲田大学名誉教授 日本芸術院会
 壁画は1961年(昭和36年)、東洋女子短期大学の新校舎建設に際して制作された。イギリスの詩人W.WordsworthによるLucy詩篇の一節、「岩間がくれの菫花」をモチーフとした作品であり、素材には主材料のタイルの他に学生、卒業生、教職員の持ち寄った陶窯の破片が用いられている。
 2007年(平成19年)、東洋学園大学の新校舎建設に当たり、学園のシンボルとして原型のまま保存することとした。
 2007年 東洋学園大学
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所在地 文京区本郷1-28-32

  文京区で一番大きな樹木
  樹種         クスノキ
  指定番号      2-13
  指定年月日    昭和54年(1979)10月1日
  所有者(管理者) パークハウス楠郷臺管理組合
文京区みどりの保護条例に基づいて、保護指定をしている樹木です。このクスノキは、地上1.5mにおける幹廻りが8.5mあり、文京区内で一番大きな樹木です。
クスノキの若葉は、赤みがかった色から鮮やかな緑へとかわります。
5~6月にクリーム色の小さな花が咲き、秋に黒い実をつけます。
 文京区



 


所在地 文京区本郷1-33-17

  出世稲荷神社
 「この辺昔、春日局宅地なりし時、鎮守のため勧請なり。春日局・・・出世ありしゆえ当社の神徳を崇め、出世稲荷と崇め奉るなり。」『旧事名話』
 春日局は本名「ふく」父は明智光秀の重臣斎藤内蔵助利三である。戦いに敗れ、逆賊の家族として苦しい生活をした。後、徳川三代将軍家光の乳母となり、江戸城 大奥にて大きな力をもつに至った。
 このあたりの片側を将軍から拝領し、町屋をつくった『御府内備考』によれば神社の土地は拝領地28坪、外に27坪、小栗猶之丞より借地とある。享保2年(1717)焼失したので京都稲荷山の千年杉で御神体を作り祭った。春日町起源のゆかりのある場所である。
 文京区教育委員会 昭和60年(1985)3月

 


所在地 文京区本郷1

  新坂外記坂げきさか
 区内には、新坂と呼ばれる坂が6つある。『東京案内』に、「壱岐坂の北にありて小石川春日町に下るを新坂といふ」とある。『江戸切絵図』(嘉永6年〔1853〕尾張屋清七坂)によると、坂上北側に内藤外記という旗本の大きな屋敷があり、ゲキサカとある。新坂というが、江戸時代からあった古い坂である。
 この坂の一帯は、もと御弓町、その後、弓町と呼ばれ、慶長・元和の頃(1600年ごろ)御弓組の与力同心六組の屋敷がおかれ、的場で弓の稽古が行われた。明治の頃、石川啄木斉藤緑雨、内藤鳴雪などの文人が住んだ。
 東京都文京区教育委員会 昭和63年(1988)3月

 


所在地 文京区本郷1・2

  建部坂たけべざか初音坂はつねざか
 『新撰東京名所図会』に「富士見坂の北にある坂を建部坂といふ。幕士竹部氏の邸地あり因って此名に呼び做せり」とある。嘉永3年(1850)の『江戸切絵図』で近江屋板を見ると、建部坂の上り口西側一帯(現在の元町公園)に建部氏の屋敷が見える。直参、千四百石で、八百八十坪(約2900㎡)であった。
 『御府内備考』に次のような記事がある。建部六右衛門様御屋舗は、河岸通りまであり、河岸の方はがけになっている。がけ上は庭で土地が高く、見晴らしが良い。がけ一帯にやぶが茂り、年々鶯の初音早く、年によっては12月のうちでも鳴くので、自然と初音の森といわれるようになった。明和9年(1772)丸山菊坂より出火の節、やぶが焼けてしまったが、今でも初音の森といっている。初音の森の近くで、一名初音坂ともいわれた。
 文京区教育委員会 平成14年(2002)3月


所在地 文京区本郷1・4

  東富坂ひがしとみさか真砂坂まさござか
 本来の「東富坂」は、この坂の南を通る地下鉄丸ノ内線に沿った狭い急坂である。現在は、「旧東富坂」と呼んでいる。もともとの坂は江戸の頃、木が生い繁り、鳶がたくさん集ってっくることから「鳶坂」といい、いつの頃からか「富坂」とよぶようになったという。
 現在の東富坂は、本郷3丁目から伝通院まで、路面電車(市電)を通すにあたり、旧東富坂上から春日町交差点まで新しく開いたゆるやかな坂道である。この市電は、1908年(明治41年)4月11日に開通した。現在、文京区役所をはさんで反対側にある坂を、「富坂(西富坂)」と呼び区別している。
 文京区教育委員会 平成8年(1996)3月

 


所在地 文京区本郷2-7-8

  済世学舎発祥の地(濟生學舎)
 明治9年(1876)4月9日、この地に、医学者・長谷川泰(1842~1912)によって、「濟生學舎」が開校した。濟生=”広く民衆の病苦を済う”この願いを込めて、医術開業試験(当時)の予備教育を目ざして創立された学舎に、西洋医学を志す優れた学徒が多数集った。明治12年(1879)冬、火災により校舎を失い、学者長の自宅(現本郷2-7-8)とその隣地に移転、明治15年(1882)、現在の湯島2丁目(ガーデンパレスの地)に、本格的校舎を建設し、附属蘇門病院及び薬学部を付設して、「東京医学専門学校濟生學舎」と称した。
 かくして、学舎は隆盛の一途をたどったが、事情あって、明治36年(1903)8月31日、創設者・長谷川泰みずから廃校を布告して、28年間の歴史を閉じた。その間、2万1千余の男女学生が学び、9千6百余の医師を輩出し、わが国黎明期の医学振興、地域医療に果たした役割は極めて大きい。
 「濟生學舎」の廃校直後から、これを惜しむ教師・学生達によって、いくつかの医学講習会が設けられたが、その1つを母体にして明治37年(1904)4月、「私立日本医学校」が創立され、現在の「日本医科大学」(千駄木1丁目)へと発展し、濟生學舎教育の精神は受け継がれていった。また、学舎ゆかりの「東京女子医科大学」、「東京医科大学」も、それぞれの道を歩み発展していった。
 昭和63年(1988)3月 東京都文京区教育委員会


所在地 文京区本郷2-7

  本郷給水所公園








 本郷給水所公園内には『神田上水石碑』があります。

 


所在地 文京区本郷2-7 (本郷給水所公園)

 神田上水石樋
     平成二年十月 東京都知事 鈴木俊一 書



 徳川家康が入府した天正18年(1590)頃の江戸は、広大な武蔵野台地の東端に位置する小さな村落であったといわれている。
 神田上水は、家康の江戸入府にさいして、家臣大久保藤五郎忠行が開削した小石川上水がその起源といわれている。
 神田上水は、井の頭池の湧水を水源とする神田川に善福寺川、妙正寺川の水路を合わせ、目白台下野大洗堰に至り、水戸藩邸を通って神田川を懸樋で渡し、神田・日本橋方面の飲み水などに利用していた江戸時代から明治時代はじめの水道である。
 この石樋(石垣樋)は、昭和62年(1987)から平成元年(1989)にかけて発掘された神田上水幹線水路の一部を移築復原したものである。
 石樋の内部寸法は、上幅150cm、下幅120cm、石垣の高さ120~150cmで、長さ約180cm、幅60cm、厚さ30cm前後の蓋石がのせられている。
 江戸水道から現在の東京水道に至る400年を記念し、また、江戸時代遺跡の保存活用を図ることを目的としてここに移築復原したものである。
 平成2年(1990)10月 東京都水道局


                    神田上水石樋の由来碑


所在地 文京区本郷2-15

真言宗豊山派
 薬王山 三念寺

 


所在地 文京区本郷2-20

  三河稲荷神社

祭神 宇迦之御魂命うかのみたまのみこと



由緒
 当社は三州碧海郡上野庄稲荷山に鎮座して、徳川家康三州在城のみぎり崇敬浅からず、しばしば奇瑞(めでたい事の前兆)ありて神徳を感じ、開運の後、神領として三十石に山林境内を寄進あり、天正18年(1590)江戸入国にさいし社を吹上に造営奉遷した。
 慶長11年(1606)由緒ありて仲間小人拝領大縄地に移住の節、大縄地氏神として奉遷、元禄7年(1694)町地となるにおよび、本郷元町と改称、1丁目・2丁目の氏神として鎮座し、明治元年地続の浄土宗昌清寺囲内となるにおよび、元町1丁目3番地に200余坪の敷地を購い遷座、のち明治26年(1893)3月本郷給水所設置により、現在の所に遷座。大正12年(1923)9月の大震災により全焼、大正13年(1924)6月本殿・幣殿・神楽殿・社務所完成、社務所は昭和58年(1983)改築現在に至る。


所在地 文京区本郷2-35-14

 本郷教会
  


  教会の沿革
 明治19年(1886)10月10日本郷湯島で海老名弾正牧師が伝道を開始したのが弓町本郷協会の揺籃である。海老名弾正は洗礼を熊本洋学校の友人と共に受け、設立間もない同志社に学んだ。のちに一時母校の同志社総長を務めた時もあるが、当教会牧師として26年間、名誉牧師として8年間在籍した。歴代主任牧師は海老なのほか横井時雄、野口末彦、額賀鹿之助、田崎健作、大倉幾代、定家修身が務め、2003年4月以来は菅原力が務めている。
 会堂は明治24年(1891)本郷東竹町に建てるまでは、湯島、西片町、金助町、森川町、春木町などで集会が持たれていた。本郷東竹町の「本郷会堂」を明治31年(1898)の本郷大火で焼失したため、壱岐坂に新会堂を建設したが、関東大震災で再び焼失、大正15年(1926)、教会員中村鎭の設計による現教会堂が落成した。



  歴史的建造物
 現教会堂の本体部分は、昭和初期に数多く建てられた中村式鉄筋「コンクリートブロック」(鎭ブロック)造りの代表的な建造物である。設計者が用途と構造と美と経済との集中する其一点に建築の礎を置くことを志して設計し、自分で説明文を「中央美術」に発表している希な建物である。


所在地 文京区本郷2-38-9 (新井理髪店)

  石川啄木喜之床きのとこ旧跡
 石川啄木は、明治41年(1908)5月、北海道の放浪生活を経て上京し、旧菊坂町82番地(本郷5-15・現オルガノ会社の敷地内)にあった赤心(せきしん)館に金田一京助を頼って同宿した。
 わざか4か月で、近くの新坂上の蓋平館別荘(現太栄館)の3階3畳半の部屋に移った。やがて、朝日新聞社の校正係として定職を得て、ここにあった喜之床という新築間もない理髪店の2階2間を借り、久し振りに家族そろっての生活が始まった。それは、明治42年(1909)の6月であった。
 五人家族を支えるための生活との戦い、嫁姑のいさかいに嘆き、疲れた心は望郷の歌となった。そして、大逆事件では社会に大きく目を開いていく。啄木の最もすぐれた作品が生まれたのは、この喜之床時代の特に後半の1年間といわれる。
 喜之床での生活は2年2か月、明治44年(1911)の8月には、母と妻の病気、啄木自身の病気で、終焉の地になる現小石川5-11-7の宇津木家の貸家へと移っていく。そして、8か月後、明治45年(1912)4月13日、26歳の若さでその生涯を閉じた。
 喜之床(新井理髪店)は明治41年(1908)の新築以来、震災・戦災にも耐えて、東京で唯一の現存する啄木ゆかりの旧居であったが、春日通りの拡幅により、改築された。昭和53年(1978)5月啄木を愛する人々の哀惜のうちに解体され、70年の歴史を閉じた。旧家屋は、昭和55年(1980)「明治村」に移築され、往時の姿をとどめている。現当主の新井光雄氏の協力を得てこの地に標識を設置した。
 かにかくに渋民村は恋しかり
 おもいでの山
 おもいでの川 (喜之床時代の作)
  文京区教育委員会 平成4年(1992)10月


所在地 文京区本郷2-1-1

  順天堂大学
 順天堂は、天保9年(1838)、江戸・薬研堀(現在の東日本橋2-6-8)に医学者・佐藤泰然が設立したオランダ医学塾に端を発し、いまに繋がる日本最古の西洋医学教育機関です。江戸時代後期、江戸より下総佐倉(現在の千葉県佐倉市)に移った順天堂は、全国各地より百数十名を超える俊英が参集し、「日新の医学、佐倉の林中より生ず」といまに語り継がれるが如き、西洋医学研究・教育、そして臨床医学実践の場となりました。
 明治2年(1869)、順天堂第二代堂主・佐藤尚中は、明治政府の要請を受け、佐倉より多数の門下生を率いて上京し、宮内省「大典医」・文部省「大学大博士」を拝命し、大学東校(東京大学医学部の前身)の初代校長として近代医学教育確立に尽力し、西洋医学教育最高学府(東京帝国大学医学部)の礎を固めました。
 順天堂第三代堂主となる佐藤進は、明治2年(1869)、明治政府発行の旅券第一号をもってドイツに留学し、明治7年(1874)、アジア人として最初のベルリン大学医学部卒業生となりました。ドイツより帰国した佐藤進は、明治8年(1875)、順天堂病院長・第三代堂主となり、陸軍本病院長や日清・日露両戦役の陸軍軍医総監も兼務し国難に対峙し、そして明治18年(1885)、東京大学医学部附属第一医院及び第二医院の院長をも兼任するなど、日本におけるドイツ流医学教育普及のリーダーとなりました。



 順天堂病院は、明治6年(1873)、下谷練塀町(現在のJR秋葉原駅付近)に、そして明治8年(1875)、湯島・本郷(現在地)に移転し現在に至っています。現在、順天堂大学は4学部・3大学院・6医学部附属病院を擁する「健康総合大学」として、順天堂病院1,020床、静岡病院552床、浦安病院653床、越谷病院226床、江東高齢者医療センター348床、練馬病院400床からなる総病床数3,199床の日本でも有数の病院群を有しています。



 順天堂の「順天」は、中国の古典「易経」にある「順天応人」(天の意思に願い、人々の期待に応える)と、孟子の言葉の「順天者存。逆天者亡」(自然の摂理に順うものは存続して栄え、天の理法に逆らうものは亡びる)に由来します。
 学是は「仁」、理念は「不断前進」であり、校章は「仁」を意匠化したものです。
 2011年5月15日(創立記念日) 学校法人 順天堂


所在地 文京区本郷2-1・2

  油坂あぶらざか揚場坂
あげばざか
 この坂は、油坂または揚場坂と呼ばれている。坂上の左側は本郷給水所公苑である。『油坂、元町1丁目と東竹町辺の間を南に下る坂あり、油坂と呼ぶ』(新撰東京名所図絵)とあるが、その名の起りは不明である。
 この坂は別名『揚場坂』といわれているが、その意味は、神田川の堀端に舟をつけて、荷物の揚げおろしをするため、町内地主方が、お上に願って場所を借りた荷あげ場であった。この荷揚場所に通ずる坂道を揚場坂道と呼んだのがのちに『揚場坂』といわれるようになった。
 『揚場坂と申し、里俗に近辺には無御座候得共、町内、持場揚場御茶の水河岸内に有之候に付、右揚場坂道を他所の者、揚場坂と唱候儀も有之趣に御座候』(御府内備考より)
 文京区教育委員会 昭和62年(1987)3月

 


所在地 文京区本郷4-8-3

  真砂遺跡
 ”文京区女性センター”の建っているこの地に、江戸時代の宝永元年(1704)から安政5年(1858)までのおよそ150年間、唐津(佐賀県)藩主・小笠原氏の中屋敷、そして幕末まで上田(長野県)藩主・松平氏の中屋敷があった。
 現在の建物を建築するにあたり、昭和59年(1984)に発掘し調査した結果、数々の遺構と遺物を検出し、当時の武家屋敷とそこで働く人々の生活を知る貴重な資料を得ることができた。この遺跡をもとの町名にちなんで「真砂遺跡」と命名した。
 出土品で最も多かったのは、生活用具としての陶磁器であったが、文京区内では非常に珍しい1万8千年位前に使われたと思われる黒曜石の矢じり、18世紀にオランダでつくられた土製のクレイパイプなどが発見された。遺構としては、火災の時の荷物の避難場所、あるいは酒やみその発行場所と考えられる。40に及ぶ地下室、千川上水を引き込んだ上水道跡等が発掘され、多大な成果を収めた。
 東京都文京区教育委員会 平成元年(1989)3月


所在地 文京区本郷4-11-6

  金田一京助・金田一春彦 旧居跡
 金田一京助(言語学者)は、明治15年(1882)岩手県盛岡に生まれた。
 東京大学言語学科卒業後、昭和17年(1942)から同大学において教授として教鞭を執り、のちに国学院大学教授となった。
 東京大学在学中からアイヌ民族に関る言語、文学、民族の研究を始め、北海道・サハリン(樺太)のアイヌ居住地を歴訪し、実地調査と研究により、アイヌ語を初めて学問的に解明し、アイヌの叙事詩ユーカラを世に始めて紹介した。アイヌに関る多くの著書は、日本列島における北方文化を学ぶ者の原点ともなっている。これら数々の功績により、昭和29年(1954)には、文化勲章が授与された。
 盛岡中学時代、2年下級に石川啄木が在籍していた。石川啄木は中学を卒業後、盛岡から上京、京助を尋ね、急速に文学への関心を高めていった。京助は啄木の良き理解者であり、金銭的にも、精神的にも、類まれな援助者であった。
 金田一京助の長男、春彦(国語学者)は、大正2年(1913)ここ本郷の地で生まれた。大正9年(1920)からの5年間、近くの真砂小学校(現本郷小学校)に在籍。この頃唱歌の音階に関心を持ち、それが後の平家琵琶やアクセント研究のきっかけとなった。東京大学国文学科を卒業後、名古屋大学・東京外国語大学、上智大学などで教鞭を執った。
 全国各地のアクセントを調査研究し、国語アクセントが歴史的かつ体系的に変化することを初めて実証した。また、数多くの国語関係辞書等を編纂を通じて、その研究成果を一般に普及させた。第50回(平成9年度)文化功労者表彰受賞、平成13年度東京都名誉都民。
 文京区教育委員会 平成16年(2004)3月


所在地 文京区本郷4-37

  十一面観世音菩薩



 元この地にあった天台宗真光寺の観世音銅像(座像長四尺八寸)は、十一面観世音菩薩と呼ばれ地域に親しまれている。東は現本郷通り、南は現春日通りに囲まれ、少し奥まったところに真光寺はあった。真光寺は藤堂高虎によって再建された寺であり、本郷薬師堂及び十一面観世音菩薩は真光寺境内に置かれていた。



 十一面観世音菩薩の蓮華座には、「六十六部供養佛 江戸神田鍛冶町 小林修理源義是作」と鋳物師の氏名が刻まれ、依頼主は「当寺第四世 大阿闍梨権大僧都 竪者法仰尚賢子具」とあり、「享保五庚子(1720)九月日」の紀年銘がある。

 

 観世音信仰が盛んになったのは奈良時代(710~794)からである。温顔で自ら修行の傍ら、多くの民生を教化、救済してくれるこの像に人々の信仰が集まった。十一面観世音は本来慈悲の面を基調に、時に応じ、場に従い、さまざまな顔を使い分け、人々を救済してくれるため、深く信仰の対象となった。
 真光寺は太平洋戦争で焼失し、世田谷給田に移転したが、この十一面観世音菩薩は罹災をまぬがれ、この地に残った。
 文京区教育委員会 平成16年(2004)3月

 

一度拝んだら忘れられない、おだやかなお顔、是非御参拝下さる様御推め致します。由来については数々のエピソードがご座いますが、簡単に申しますと今ありますお薬師様附近は昔、犯罪人の処刑場、つまり首切り場で、人も恐れて近よらない淋しい荒れ寺の一部でありました。夕暮れともなりますと、何十羽と言う鳥が飛んで来ては、晒し首の目玉をつつき出し、それは二た目と見られぬ地獄の有様であった、と古老は伝えて居ります。此処に全国六十六ヶ所の霊場に観音経を奉る六十六部衆と言う組織がありました。将軍吉宗の頃(1720)余りのあわれさに、此の人達が近郷近在の庄屋、名主を説きふせて寄附金を集め、御招来申し上げたのが此の観音様で御座います。それまで人の居つかなかった此の地に、数年を出ずして立派な門前町が出来上り、御薬師様の繁栄と共に本郷の名物となりました。
明治維新の折、佛教を廃止して釈迦の教えを捨てよ、之を廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)と言い、此の観音様も棒で叩かれたり、突かれたり、ひどい仕打ちを受けました。昭和20年(1945)終戦当時、皆様御存じの■論が、やはり観音さま受難の時期で、荒縄■むしろでぐるぐる巻きにされ、墓地に放り出される一幕もありました。然し再度に及び佛体への迫害にも、晃爾(かんじ)と耐えて「人々よ、人たる道誤るな、人の心を失うな、人こそ人の基なるぞ。」と傷だらけの佛体を晒して、人心荒廃した東京の焼野原に、正しい人間の在り方を訴えかけられたのは此の観音様であります。其の後経済の安定と共に心ある人々相集り、仏体修復しこの地の鎮めとして御安座願って居ります。
 昭和57年(1982)3月吉日 本郷薬師奉賛会


所在地 文京区本郷4
 
  本妙寺坂ほんみょうじざか
 この坂は、本郷の台地から菊坂へ下っている坂である。菊坂をはさんで真向かいの台地には(現在の本郷5-16あたり)かつて本妙寺という法華宗の寺があった。境内が広い大きな寺で、この寺に向かって下る坂であったところから「本妙寺坂」と呼ばれた。
 本妙寺は明暦の大火(振袖火事・明暦3年〔1657〕)の火元として有名である。明治43年(1910)豊島区巣鴨5丁目に移転した。
 文京区教育委員会 平成6年(1994)3月

 


所在地 文京区本郷4

  鐙坂あぶみざか
 本郷台地から菊坂の狭い谷に向かって下り、先端が右にゆるく曲がっている坂である。名前の由来は「鐙の製作者の子孫が住んでいたから」(『江戸志』)とか、その形が「鐙に似ている」ということから名付けられた(『改撰江戸志』)などといわれている。
 この坂の上の西側一帯は上州高崎藩主大河内家松平右京亮の中屋敷で、その跡地は右京山と呼ばれた。
 文京区教育委員会 平成6年(1994)3月

 


所在地 文京区本郷4

  炭団坂たどんざか
 本郷台地から菊坂の谷へ下る急な坂である。名前の由来は「ここは炭団などを商売にする者が多かった」とか「切り立った急な坂で転び落ちた者がいた」ということからつけられたといわれている。
 台地の北側の斜面を下る坂のためにじめじめしていた。今のように階段や手すりがないころは、特に雨上がりには炭団のように転び落ち泥だらけになってしまったことであろう。
 この坂を上りつめた右側の崖の上に、坪内逍遥が明治17年(1884)から明治20年(1887)まで住み、「小説神髄」や「当世書生気質」を発表した。
 文京区教育委員会 平成6年(1994)3月

 


所在地 文京区本郷4-9-29

  文京ふるさと歴史館




 文京ふるさと歴史館敷地内には『庚申塔』、『富士講の碑』、『板碑』、『水盤』、『神田上水の石』があります。


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