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東京都文京区の歴史
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所在地 文京区目白台1-1

 江戸時代、ここは武家地であった。幕末には細川越中守の下屋敷、抱え屋敷であったが、明治15年(1882)からは細川家の本邸となった。その後昭和34年(1959)、都立公園として開園したが、昭和50年(1975)4月、文京区に移管され、文京区立新江戸川公園となった。
 庭園はもとの細川邸をそのまま公園にしたもので、規模は比較的小さいが、素朴さの中に、江戸情緒が漂う回遊式泉水庭園である。目白台の地形の変化を巧みに利用し、名園と呼ぶにふさわしい景観を作り出している。また春・夏に咲く花々、秋の紅葉、そして雪景色は見事である。
 「松聲閣」と呼ぶ園内の建物は、細川家の学問所であった。現在は区民の集会所として利用されている。
 文京区教育委員会 平成13年(2001)3月









  新江戸川公園とその周辺
 新江戸川公園は、幕末まで熊本藩主・細川家の下屋敷があったところで、明治15年(1882)細川家の本邸となりました。台地と低地の地形を利用して、立体的な眺めを作りだしている池を中心にした回遊式の庭園です。
 この近くに「関口芭蕉庵」、細川家の「永青文庫」、「東京カテドラル聖マリア大聖堂」、「日本女子大学・成瀬記念講堂」少しはなれたところに「護国寺」など、名所・旧跡があります。



      SHIN EDOGAWA PARK AND ITS VICINITY
Shin Edogawa Park is where the residence of the HOSOKAWA family was oribinally locered,until the end of the EDO era. The HOSOKAWA family were theDaimyo of Kumamoto,and in the 15year of Meiji(1882)this house became their main residence.
This rarden was designed for strolling,and in its comstruction the naturallay of the land was taken abvantage of its hills and valleys giving a three-demensional landscape with the pond at the center.
Neally,there are many points of interest,marked with sign,such asa SEKIGUCHI BASHO AN,EISEIBUNKO,building of the HOSOKAWA family,ST.MARY'S CATHEDRAL?JAPANWOMENS UNIVERSITY, THE NARUSE'SAUDITORIUM,and a short distance away you can also see the GOKOKUJI temple and other ponds interest.





 
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所在地 文京区目白台1-1-1
 
  永青文庫
 この地は、中世室町幕府の管領家の一門であり肥後熊本54万石の大名であった細川家の下屋敷跡である。細川家がここに入ったのは幕末で、当時は3千坪であったが、その後少しずつ拡張し、新江戸川公園・永青文庫を含む神田上水から目白通りに及ぶ約3万8千坪の広大な敷地であった。
 永青文庫は、南北朝時代から現在に至る歴代細川家25代の間に蒐集された細川家の歴史資料や文化財、及び24代護立氏が蒐集した近代日本画、中国の考古品、陶磁器などを以って昭和25年(1950)に設立された。
 昭和47年(1972)に登録博物館となり一般に展示公開されている。
 昭和62年(1987)3月 文京区脅威食う委員会



所在地 文京区目白台1-1-9

  水神社
 祭神は、速秋津彦命・速秋津姫命・応神天皇
 創建の年代は明かでない。
 『江戸砂子』には、「上水開けてより関口水門の守護神なり。」とある。
 わが国最古の神田上水は、徳川家康の命により、大久保主水が開いた。井頭池からの流れを、目白台下野現大滝橋のあたりに、堰(大洗堰)を築き、水位をあげて上水を神田、日本橋方面に通じた。
 伝えによれば、水神が八幡宮社司の夢枕に立ち、「我水伯(水神)なり、我をこの地に祀らばの守護神となり、村民を始め江戸町ことごとく安泰なり」と告げたのでここに水神を祭ったという。
 上水の恩恵にあずかった神田、日本橋方面の人たちの参詣が多かったといわれる。また、このあたりは田園地帯で、清らかな神田上水が流れ、前には早稲田田んぼが広がり、後には目白台の椿山を控え、西には富士の姿も美しく眺められて、江戸時代は行楽の地であった。
 昭和58年(1983) 文京区教育委員会








所在地 文京区目白台2-14-9

日蓮宗
 清土鬼子母神堂(鬼子母神出現所)



雑司が谷七福神
 吉祥天









 清土鬼子母神堂には『三角井戸』、『芭蕉句碑(涼月塚)』、『道標』、『歌碑』があります。


所在地 文京区目白台1

 豊坂
 坂の名は、坂下に豊川稲荷社があるところから名づけられた。江戸期この一帯は、大岡主膳正の下屋敷で、明治になって開発された坂である。坂を下ると神田川にかかる豊橋があり、坂を上ると日本女子大学前に出る。
 目白台に住んだ大町桂月は『東京遊行記』に明治末期このあたりの路上風景を、次のように述べている。
 「目白台に上れば、女子大学校程近し。さきに早稲田大学の辺りを通りける時、路上の行人はほとんど皆男の学生なりしが、ここでは海老茶袴をつけたる女学生ぞろぞろ来るをみるにつけ、云々」
 坂下の神田川は井之頭池に源を発し、途中、善福寺川、妙正寺川を合わせて、流量を増し、区の南辺を経て、隅田川に注いでいる。江戸時代、今の大滝橋のあたりに大洗堰を築いて分水し、小日向台地の下を素堀で通し、江戸市民の飲料水とした。これが神田上水である。
 文京区教育委員会 平成12年(2000)3月







 


所在地 文京区目白台2-4-16

 窪田空穂(くぼたうつぼ)終焉の地
 窪田空穂 明治10年(1877)~昭和42年(1967)。本名は通治。空穂は号。明治、大正、昭和の歌人、国文学者。
 その文筆活動は、短歌、小説、随筆、評訳と多彩であった。多数の歌集のほか、万葉集、古今集、新古今集の評訳、源氏物語の現代語訳などを著した。一方早稲田大学教授として多くの人材を育てた。昭和16年(1941)、日本芸術院会員。昭和33年(1958)、文化功労者。
 明治45年(1912)竹早町(現・小石川5丁目)に居住して以来、文京区とのゆかりが深く、この地に46年間住み、昭和42年(1967)4月12日ここで没した。享年89歳。
 文京区教育委員会 平成7年(1995)3月






所在地 文京区目白台1-21-2 (和敬塾)

 前川喜作先生像
祖匤永安の道に和敬の世界原理に則る大学学生の人間形成教育に在りとし昭和30年(1955)私設を拠る茲に和敬塾を創設せられ爾来拮据経営塾生亦切磋塾風を興し塾とも減减教えを体しない害に活躍す寔に昭和教育史上普及の盛事なり仍て我等今塾祖の銅像を建立してその学■に報い偉業を仰ぎこの教育精神を永く後世に遺さんとす
 昭和56年(1981)5月吉日 和敬塾塾とも会献納

 










所在地 文京区目白台1-21-2 (和敬塾)

東京都指定有形文化財
 和敬塾本館(旧細川侯爵邸)
     平成10年3月指定
 財団法人和敬塾は、首都圏のさまざまな大学で学ぶ男子学生のための学生寮です。海外からの留学生も含め五百余名の大学生・大学院生がここで共同生活を送っています。
 約七千坪の敷地には、学部寮生と大学院生寮、ならびに東京都してい有形文化財の本館(旧細川侯爵邸)があります。
 常に理想を求める事業家だった前川喜作(1895~1986)によって、昭和30年(1955)この地に和敬塾が設立されました。「国家社会の各方面において中堅となり先達となり支柱となるべき人材の育成」を創設の目的に掲げています。
 聖徳太子の十七条憲法の第一条「和をもって貴しとなす」から「和」を、第二条「篤く三宝を敬え」から「敬」をとって名づけられました。
 「人間形成、修養の場として」「日常の共同生活をを通じて学生諸君にセルフメイドしてもらう」というのが前川喜作の希いでした。
 毎年百余名の若者が社会に巣立ち、多方面で活躍しています。

 


所在地 文京区目白台1

 小布施坂(こぶせざか)
 江戸時代、鳥羽藩主稲垣摂津守の下屋敷と、その西にあった岩槻藩主大岡主膳正の下屋敷の境の野良道を、宝暦11年(1761)に新道として開いた。その道がこの坂である。
 坂の名は、明治時代に株式の仲買で財をなした小布施新三郎という人の屋敷がこのあたり一帯にあったので、この人の名がとられた。古い坂であるが、その名は明治のものである。
 東京都文京区教育委員会 昭和63年(1988)3月





 


所在地 文京区目白台3-22-17

 塩井雨江・大町桂月 旧居跡

塩井雨江 明治2年(1869)~大正2年(1913)明治・大正期の詩人・国文学者
 東京帝国大学在学中から大町桂月・武島羽衣とともいに三羽鳥といわれ落合直文の「あさ香社」に入って、短歌革新運動を行った。在学中、英国詩人スコット原作の長詩を流麗な七五調に訳した『今様長歌 湖上之美人』を刊行して、擬古派の新進詩人として注目され、新体詩の普及に貢献した。また、桂月、羽衣との合著『美文韻文 花紅葉』を出版、ひろく愛読された。国文学者としては、『新小今和歌集詳解』などを著した。
 明治35年(1902)、日本女子大学校(現日本女子大学)教授となり、国文学を講ずるとともん、女子教育に尽くした。
 当地には明治35年(1902)から住み、明治43年(1910)に奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)の教授として赴任したため転居した。そのあとには、雨江の義弟である大町桂月が移り住んだ。

大町桂月 明治2年(1869)~大正14年(1925)明治・大正期の文芸評論家・詩人・随筆家・国文学者
 明治26年(1893)、東京帝国大学に入学し、在学中から『帝国文学』の編集にあたり、かたわら新体詩や評論を発表した。『黄菊白菊』『筆のしずく』『我が文章』等、多くの著書がある。また、雑誌『太陽』や『中学世界』などに評論、紀行文をのせ、青少年の教育向上に尽くした。
 桂月は、酒と旅を愛し、全国をめぐり、多くの紀行文を書いた。その足跡は満州、朝鮮にもおよんだ。
 大正14年(1925)6月、桂月は青森県蔦温泉で没したが、人間味あふれる生涯で、人生のわび・さびを語り、人柄がしのばれる名文家であった。
 この地には明治43年(1910)から没年まで住んだ。
 ぶんきょうく教育委員会 平成20年(2008)9月



所在地 文京区目白台3-26-1

 腰掛稲荷神社



 腰掛稲荷神社には『菊花石』、『庚申塔』、『「平田牧場」説明板』があります。


所在地 文京区目白台3-26-1 (腰掛稲荷神社)

 菊花石(きくかせき)  特別天然記念物
産出地   岐阜県根尾村
総重量   1.1トン
高さ     97センチ
幅      85センチ
 稲荷神社社務所

 岐阜県本巣郡根尾村に産する岩石で、割った切面に美しい菊花状の模様が現れる。近年庭石や飾石として珍重されている。赤褐色、朱、紫などの岩石の地肌の中に白や紅色の菊紋が点在する。中には菊紋の直径が20cmに及ぶものもある。京都や秩父地方でも産出されるが、根尾の菊花石のように見事なものは他に例がない。
 平成21年(2009)11月・崇敬者より奉納される









所在地 文京区目白台3-26-1 (腰掛稲荷神社)

 平田牧場
 明治の元勲・山県有朋が出資して、明治5年(1872)~明治6年(1873)、平田貞次郎に英華舎・平田牛乳搾乳所(現在の千代田区三番町)を開設させ、明治10年代には雑司ヶ谷村に牧場を開設しました。
 清戸坂の道ぞい北側に平田牧場の立派な牧舎があり、隣には牛乳の小売店として、旗竿には「官許うしのちち」と、かなとローマ字書きの旗がかかっていました。
 ここ文京区は、昭和22年(1947)に小石川区と本郷区が合併、明治以来文教地区であったことにその名は由来していますが、農業、特に畜産も当区の歴史として1ページを飾っています。
 ペーリー来航で「鎖国令」が解けた事などから、江戸には欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増え、明治10年(1877)の西南の役が終わった頃より、当区にも牛乳搾乳業者が増加しました。
 明治中期の資料によると、本郷弓町「牧牛社」、本郷真砂町「真砂社」、本郷森川町「開墾社」、湯崎新花町「厚生舎」、千駄木林町「楽牛園」、千駄木町「友國社」、駒込上富士前町「長養軒」、駒込曙町「曙舎」、小日向茗荷谷町「駒山牧社」、小石川原町「嶺岡牧社」、小石川久堅町「保生舎」など20軒近い牧場が集中していました。
 平成9年(1997)度JA東京グループ
 農業協同組合法施行50終焉ン記念事業
 

           THE AGRICULTURE OF EDO&TOKYO
                  Hirata Dairy Farm
 In 1870s,Sadajiro Hirata,by the order and investment from Aritom Yamagata,a veteran statesman of the Imperial Restoration of Meiji,opened a dairy at the present Sanban-cho,Chiyoda ward and its stock farm at Zohigaya village.
 Hirata Dairy Farm had a magnificent stable along the northern roadside of Kiyotozaka.Adjacent to the dairy was a milk shop hoisring on the pole a flag of "The Government-Approved Cow Milk" printed in kana and romaji.
 THe record in the middle of Meiji Era tells that nearly twenty dairy farms could be counted in the present Bunkyo ward.




所在地 文京区目白台2・3 

 薬罐坂(夜寒坂)
 江戸時代、坂の東側は松平出羽守の広い下屋敷であったが、維新後上地され国の所有となった。現在の筑波大学付属盲学校一帯にあたる。また、西側には広い矢場があった。当時は大名屋敷と矢場に挟まれた淋しい所であったと思われる。
 やかん坂のやかんとは、野豻とも射干とも書く。犬や狐のことをいう。野犬や狐の出るような淋しい坂道であったのであろう。また、薬罐のような化物が転がり出た、とのうわさから、薬罐坂と呼んだ。夜寒坂のおこりは、この地が「夜さむの里道」と、風雅な呼び方もされていたことによる。
 この坂を挟んで、東西に大町桂月(1869~1925、評論家、随筆家)と、窪田空穂(1877~1967、歌人、国文学者)が住んでいた。
 この道を行きつつみやる谷こえて蒼くもけぶる護国寺の屋根(窪田空穂)
 文京区教育委員会 平成13年(2001)3月







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