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東京都文京区の歴史
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所在地 文京区本郷1

 むかし、文京区役所があるあたりの低地をニヶ谷といい、この谷をはさんで、東西に二つの急な坂道があった
 東の坂は、木が生い繁り、鳶がたくさん集ってくるので「鳶坂」といい、いつの頃からか、「富坂」と呼ぶようになった。(『御府内備考』による)富む坂、庶民の願いがうかがえる呼び名である。
 また、ニヶ谷を飛び越えて向き合っている坂ということから「飛び坂」ともいわれた。明治41年(1908)、本郷3丁目から伝通院まで開通した路面電車の通り道として、現在の東富坂(真砂坂)が開かれた。それまでは、区内通行の大切な道路の一つであった。
 東京都文京区教育委員会  昭和63年(1988)3月


所在地 文京区本郷1

 この神田川の外堀工事は元和年間(1615~1626)に行われた。それ以前に、ここにあった高林寺(現向丘2丁目)の境内に湧き水があり、”お茶の水”として将軍に献上したことから、「お茶の水」の地名がおこった。
 『御政府備考』によれば「御茶之水は聖堂の西にあり、この井名水にして御茶の水に召し上げられしと・・・」とある。
 この坂は神田川(仙台堀)に沿って、お茶の水の上の坂で「お茶の水坂」という。坂の下の神田川に、かって神田上水の大樋(水道橋)が懸けられていたが、明治34年(1901)取りはずされた。

 お茶の水橋低きに見ゆる水のいろ
     寒む夜はふけてわれは行くなり
                  島木赤彦(1876~1926)

 平成9年(1997)3月  文京区教育委員会


所在地 文京区本郷1

 神田上水は、井の頭池の湧水を水源とする江戸時代初期につくられた日本最古の都市水道です。
 文京区関口に堰を設けて上水を取り入れ、小日向台下の裾をとおり小石川後楽園の中をぬけ、水道橋の東側で神田川を掛樋(かけひ)でわたし神田・日本橋方面に給水されていました。
  文京区土木部公園緑地課

            『神田上水懸樋(掛樋)跡』 文京区長 遠藤正則 書

所在地 文京区本郷2

 江戸時代、神田川に木製の樋を架け神田上水の水を通し、神田、日本橋方面に給水していました。
 明治34年(1901)まで、江戸・東京市民に飲み水を供給し続け、日本最古の都市水道として、大きな役割を果たしました。
 この樋は、懸樋(掛樋)と呼ばれ、この辺りに架けられていました。
 この絵は、江戸時代に描かれたもので、この辺りののどかな風情が感じられます。
 平成8年(1996)3月 東京都文京区



所在地 文京区本郷3-14-6 (NF HONGO BUILDING)

 本郷座は明治6年(1873)に本郷在住の奥田氏が「奥田座」を開設したことに始まる。その2年後に地名が春木町に変わったため「春木座」に改められた。明治10年(1877)には市川団十郎ほか歌舞伎の名優の出演もあって脚光を浴びた。
 その後、火災に見舞われたが再建され、明治35年(1902)には、「本郷座」と改称された。新派の川上音二郎一座が「ハムレット」を上演して盛況を極めたりして、新派全盛時代を築いたのも、本郷座の時である。大正12年(1923)の関東大震災で焼失したが、翌大正13年(1924)バラック建てで再興された。
 昭和2年(1927)に新装となり、昭和5年(1930)歌舞伎上演を最後に、常設映画館に転向した。
 この度の戦災で本郷座は、跡かたもなく焼失し、昔日の面影を伝えるものは残っていないが、明治・大正期における演劇文化の拠点の地として貴重な史跡である。
  平成9年(1997)3月 文京区教育委員会


所在地 文京区本郷7-3-1 (東京大学)

東京大学名誉教師ベルツ先生(在職1876~1902)、同スクリバ先生(在職1881~1901)は本学部創始のころ20年以上にわたってそれぞれ内科学外科学を教授指導し、わが国近代医学の真の基礎を築いた恩人である。


                 ベルツ先生スクリバ先生の胸像

この碑は両先生の功績を記念するため明治40年(1907)4月4日建設せられたが、このたび医学部総合中央館の新築にともなって昭和36年(1961)11月3日原位置の北方約60メートルのこの地点に移した。
  東京大学医学部



胸像を ぬらす日本の 花の雨 
                     秋桜子

    エルフィン・フォン・ベルツ(1849~1913)胸像

所在地 文京区本郷7-3-1 (東京大学)

 Erwin von Baelz (エルフィン・フォン・ベルツ)

南ドイツのピーティヒハイムで生れる。チュビンゲン大学医学部に入学し、ライプチヒ大学医学部を最優秀の聖跡で卒業した。ライプチヒ大学病院に入院した第一回医学留学生の相良元貞を診察したことがきっかけとなり、明治9年(1876)に下谷和泉橋時代の東京医学校に招聘された。明治35年(1902)までの26年間、内科学の教育と診療にあたり、わが国のない科学の礎を築いた。明治14年(1881)以後は東京大学医学部の外国人教師の主任を務めた。ツツガムシ病、肺ジストマ、温泉療法、人類学、民俗学などを研究し、世界で最初に肺吸虫卵を発見した。退任後は侍医を務め、明治38年(1905)に帰国した。「ベルツの日記」は日本の近代化を記録した歴史的資料として知られる。大正2年(1913)に大動脈瘤により没した。

    ユリウス・カール・スクリバ(1848~1905)胸像

所在地 文京区本郷7-3-1 (東京大学)

 Julius Karl Scriba (ユリウス・カール・スクリバ)

ヘッセン大公国ラインハイムに生れる。ハイデルベルグ大学で医学を学び、フライブルグ大学外科で助手を務めた。明治14年(1881)に来日し、20年間にわたり東京大学医学部で教育・診療に従事し、わが国の外科学の礎を築いた。無菌手術とエスマルヒ駆血帯を用いた無血手術を導入したといわれる。明治24年(1891)に大津で襲われたロシア皇太子の治療と明治28年(1895)に日清戦争の講和会議に出席して狙撃された李鴻章の治療のため、政府より派遣された。明治34年(1901)に東京帝国大学での任期が終了、その後、聖路加国際病院主任に就任したが、明治38年(1905)に肺結核と糖尿病により鎌倉で没した。青山霊園外国人墓地に眠る。

 
所在地 文京区本郷7-3-1 (東京大学)

嘉永16年(1639)6月20日加賀藩3代藩主前田利常公は47才の若さで小松に隠居し、嫡子光高に加賀藩80万石を、二男利次に富山藩10万石を、三男利治に大聖寺藩7万石を与え分封した。
大聖寺藩領は江沼郡全域(133ヶ村)と那谷村及び能美郡6ヶ村を加えたものであった9九代藩主利之の文政4年(1821)新田1万石、加賀藩から現米2万俵を受け加賀藩からの願出により幕府から10万石の待遇を公認された。以降14代利鬯まで10万石として明治4年(1871)廃藩置県により、大聖寺県となるまで続いた。



九谷焼は初代藩主利治が後藤才次郎に命じ、領内九谷村に窯を築き産出したと伝えられており、その窯跡は国指定史跡「九谷磁器窯跡」として残されている。 
この地大聖寺藩江戸藩邸(5997歩)跡を史実の証として石碑を設立し、後世に伝えるものである。
 平成10年(1998)1月 東京大学

                     ダイヴァース博士(1837~1912)胸像

所在地 文京区本郷7-3-1 (東京大学)

 Prof. Edward Divers  

ダイヴァース博士は英国で教育を受け、1873年来日、工部大学校都検(教頭)を経て、東京大学理学部が神田錦町から本郷に移った翌年の1886年に、名称変更された帝国大学理科大学化学科の教授に着任、13年間無機化学の教育と研究に多大な貢献をして科学教室の礎を築いた。1899年帰国後も活発な研究活動を続け、英国化学会副会長、工業会会長などを歴任した。1899年、ダイヴァース博士の功績を称えて東京帝国大学名誉教師の称号が贈られた。
 

                   制作:長沼守敬(美術学校教授)1900年


所在地 文京区本郷7-3-1 (東京大学)

大垣藩士の三男として生れる。明治4年(1871)に上京、司馬凌海の塾で学んだ。明治5年(1872)に大学南校に入学しドイツ語を学ぶ。翌明治6年(1873)校則の変更により東校へ転校し予科生となった。明治15年(1882)に東京大学医学部を卒業、スクリバ教師のもとで助手となった。明治16年(1883)、ないかの青山胤通とともにドイツへ留学、ベルリン大学ベルヒマン教授のもとで外科学を学んだ。さらにロンドンのセントトーマス病院を見学し、明治20年(1887)に帰国、同年帝国大学医科大学教授、明治26年(1893)講座制の発足により外科学第二講座教授に就任した。明治26年(1893)第二医院外科主任、明治33年(1900)第一回日本外科学会長、明治34年(1901)附属医院院長、大正7年(1918)東京帝国大学医科大学、昭和16年(1941)、肺炎により没した。


      佐藤三吉(1857~1943)胸像 水谷鉄也作 大正13年(1924)


所在地 文京区本郷7-3-1 (東京大学)

美濃国苗木藩士の三男として江戸麻布の下屋敷に生れる。明治15年(1926)に東京大学医学部を卒業、明治16年(1927)にベルリン大学に留学し、ウィルヒョウ教授らについて内科学と病理学を学んだ。帰途、パリでシャルコー教授にも教えを受けた。明治20年(1931)に帰国後、帝国大学医科大学教授に就任、明治25年(1936)より和泉橋の第二医院内科を主管した。明治26年(1937)講座制の発足により内科学第二講座教授(のちに第一講座教授)に就任した。明治27年(1938)香港のペスト流行に際し、北里柴三郎博士と共に派遣され病理解剖を担当したが、自ら感染した。医科大学学長を16年間務め、医学界に影響力を発揮した。この間、文部省に移管された伝染病研究所の所長も兼任した。明治36年(1947)第一回日本内科学会会長、明治41年(1952)癌研究会初代会頭。在任中の大正5年(1916)、胃噴門癌で没した。


     青山胤通(1859~1917)胸像 新海竹太郎作 大正9年(1920)


所在地 文京区本郷7-3-1 (東京大学)

 東京大学医学部と附属病院の創立は安政5年(1858)、神田お玉ヶ池の川路聖謨の屋敷地に開設された種痘所にさかのぼる。種痘所は類焼により同安政5年(1858)、下谷和泉橋通りに移転した。種痘所の門扉は厚い板を鉄板で囲い、鉄板の相田を頭の丸い鋲釘で打ちつけ真黒に塗ってあったので、江戸の人々は種痘所を鉄門と呼んでいた。種痘所は西洋医学所、医学所、医学校、大学東校、東校、東京医学校と改称され、明治10年(1877)に東京大学医学部となった。
 東京医学校は明治9年(1876)に本郷に移転した。本館は時計台のそびえる洋館で、現在の附属病院外来棟玄関の辺りに建てられた。正門はその向かい、現在の南研究棟(通称赤レンガ)の位置(本地点より西に約30メートル)に設置された。移転当初は種痘所の門扉も使用されたが、やがて格子模様の鉄製扉に変えられた。 
 当時、医学部正門は本郷キャンパスの正門であった。明治17年(1884)に法・文学部が、翌明治18年(1885)理学部が神田一ツ橋から移転してきたことにより、共通の公式門として本郷通り側に正門が設けられ、以後、医学部正門は鉄門と呼ばれるようになった。しかしながら、大正期に鉄門前の民有地が構内に取り込まれたため鉄門は撤去された。
 東京大学医学部の創立150周年を記念し、鉄門をゆかりのある無縁坂上に再建した。末永く多くの人々に愛されることを願うものである。
  東京大学医学部・医学部附属病院


所在地 文京区本郷7-3-1 (東京大学) 

  ジョサイア・コンドル 1852~1920
 ロンドンに生まれ、建築学を学び、1876年に野本政府と5年間の雇用契約を結んで、翌1877年に来日した。工部大学校造家学の教師となり、最初の教え子として辰野金吾や片山東熊らを輩出。建築教育に従事する傍ら、上野博物館、鹿鳴館、東京大学法文科校舎など、本格的な西洋建築を相次いで設計した。1886年に工科大学造家学科講師に転じ、1888年に辞任、建築事務所を構えて設計の仕事に力を注いだ。わが国の建築学に確固たる出発点を与えたことは不滅の業績といえる。来日後すべての設計活動を日本で行い、1920年に没した。



所在地 文京区本郷7-3-1 (東京大学) 

  チャールズ・ウェスト  1847~1908
ダブリンに生まれ、ダブリン大学トリニティ・カレッジで機械工学を修め、1869年に卒業したあと、5年余りイギリスのベルケンヘット製鉄場で働いた。造船の知識をこの時に得ている。ヘンリー・ダイアーの機械工学の後任として、1882年に来日し、機械工学とともに造船学も教えた。わが国の機械工学を未熟な状態から休息に発展させることに尽力した。そのまま日本に留まり、1908年に没した。



所在地 文京区本郷7-3-1 (東京大学) 

  古市公威  1854~1934
 1854年、姫路藩士の子として江戸に生まれる。1875年、東京開成学校から文部省最初の留学生として渡欧、1876年にパリの名門工学校エコール・サントラルに入学し、土木工学を軸に工学全般を修める。1880年に帰国後、内務技師として河川改修、築港などのプロジェクトに関わりながら、東京大学理学部講師を兼任。1886年、帝国大学創立と同時に初代工科大学長に就任し、日本近代の工学教育の礎を築いた。1888年には日本初の工学博士号を授与される。1898年に退官するが、技術者としても初代内務土木技監、初代土木学会長など要職を多く務め、新生明治日本の近代化に欠かせない役割を果たした。1934年没。



所在地 文京区本郷7-3-1 (東京大学) 

   三四郎池 (育徳園)
 加賀藩主前田氏が、現在の赤門から池にかけての一帯の地を将軍家から賜ったのは、大阪の役後のこと。園池を大築造したのは寛永15年(1638)、その性、豪宕で風雅を好んだという当主前だ利常のときである。かれの死後、綱紀がさらに補修して、当時江戸諸侯邸の庭園中第一と称せられた。育徳園と命名され、園中に八景、八境の勝があって、その泉水・築山・小亭等は数奇をきわめたものだといわれている。池の形が「心」という字をかたどっており、この池の正式名称は「育徳園心字池」なのだが、夏目漱石の小説「三四郎」以来、三四郎池の名で親しまれている。


   『舊加賀藩上屋敷育徳園心字池碑』   題字 前田利祐書  
               平成14年4月 財団法人前田育徳会建立


              The Story of Sanshiro Pond
 The Maeda family was given the property which is now the Sanshiro Pond by the Shogun after the fall of Osaka Castle in 1615.The Pond and surrounding Garden were greatly embellished in the days of Maeda Toshitune who was known for his lavish style.After the death of Toshitsune.Tsunanori did additiional work on the garden.The garden came to be known as the mosr beautiful one among on the gardens of Edo (Tokyo).Named "Iku Toku En" or "Garden of Teaching Virtue",the garden featured the traditional 8 landscapes and 8 borders,and it's pond,artificial hills asd pavillions were known for their originality.
 The contours of the pond are in the shape of the chinese character "Kokoro (or Shin)" or "Heart".The official name of the pond is "Iku Toku En SHINJIIKE" or "HEART CHARACTER POND of Garden of teaching Virtue".However,Shince the publication of Natsusme Soseki's "SANSHIRO" it has come to be known under the name of "Sanshiro Pond".


所在地 文京区本郷7-3-1 (東京大学) 

  山川健次郎  1854~1931
会津若松の山川重固の三男として生まれる。少年時代に白虎隊士を経験したのち、米国エール大学で物理学を学んだ。
帰国後、東京開成学校教授補などを経て、明治12年(1879)に26歳の若狭で東京大学理学部の物理学主任教授に就任した。
清廉潔白な人柄は多くの人の信頼を集め、社会を導く人という意味で「星座の人」と呼ばれた。大学が自治問題に揺れる中、2度にわたり東京帝国大学総長を務めた。2度目の在任中に自治紛争で揺れる京都帝国大学にも総長を依頼され、10ヶ月にわたって東京帝国大学と京都帝国大学の総長を兼ねた。
九州帝国大学初代総長、貴族院勅選議員、東宮御学問所評議員ほか多くの要職を務め、大正4年(1915)に男爵の爵位を授与された。多くの弟子を育てたことでも知られており、学問と教育に情熱を注ぎ日本の礎を築いた。



所在地 文京区本郷7-3-1 (東京大学) 

重要文化財
 赤門


 文政10年(1827)加賀藩主前田斉泰にとついだ11代将軍徳川家斉の息女溶姫のために建てられた朱塗りの御守殿門であり、重要文化財に指定されています。

This red lacquered gate "Goshuden-Mon" was built in 1827 for the sake of the 11th Shogun Tokugawa Ienari's daughter,Yo-Hime,who married Maeda Nariyasu,the feudal lord of the Province of Kaga.The gate is legally protected as one of the important cultural properties of Japan.



所在地 文京区本郷7-3-1 (東京大学) 

  濱尾新ハマオアラタ  1849~1925
明治・大正期の教育行政家。但馬国豊岡藩士の子として江戸藩邸で生まれる。慶応義塾、大学南校に学ぶ。1873年アメリカに留学し、翌1874年帰国して東京開成学校長心得になり、以後同校長補、東京大学法理文三学部綜理補として、東京大学創設初期に尽力する。1887年ケンブリッジ大学より栄誉学位を受け帰国し、文部省専門学務局長となる。農商務省の東京農林学校を廃止して、帝国大学評議会と調整をはかり、農科大学設置に尽力する。1893年文相井上毅の懇請によって、第3代帝国大学総長となる。講座制を帝国大学に導入し、大学教授会自治の礎を築いた。1897年、約2ヶ月間ながら松方内閣の文部大臣を務める。女子教育の奨励などを唱えた。1905年、第8代東京帝国大学総長となる。総長在任は合計で11年間に及び、帝大総長を象徴する存在となった。土木総長とも称され、大学キャンパスの整備、とくに大学のシンボルとなる銀杏並木の植林を推進したとされる。1933年、遺功をたたえる濱尾像が建立された。



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