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東京都文京区の歴史
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所在地 文京区本郷2-40-11

  かねやす
 兼康祐悦という口中医師(歯科医)が、乳香散という歯磨粉を売り出した。大変評判になり、客が多数集め理祭りのように賑わった。(御府内備考による)
 享保15年(1730)大火があり、防災上から町奉行(大岡越前守)は3丁目から江戸城にかけての家は塗屋・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺を禁じ瓦で葺くことを許した。江戸の町並みは本郷まで瓦葺が続き、それからの中仙道(中山道)は板や茅葺きの家が続いた。
 その境目の大きな土蔵のある「かねやす」は目だっていた。
 『本郷も かねやす までは江戸のうち』と古川柳にも歌われた由縁であろう。
 芝神明前の兼康との間に元祖争いが起きた。時の町奉行は、本郷は仮名で芝は漢字で、と粋な判決を行った。それ以来本郷は仮名で「かねやす」と書くようになった。
 文京区教育委員会 昭和61年(1986)3月

 
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所在地 文京区本郷4

  本郷薬師
 この地は、真光寺(戦災にあい世田谷に移転)の境内であった。伝えによれば、寛文10年(1670)ここに薬師堂が建立された。
 当時御府内に奇病猖獗しょうけつ)し、病にたおれる者数知れず出たためこの薬師様に祈願して病気が治まったといわれている。本来薬師如来は人間の病苦をいやし、苦悩を除く仏とされている。以来人々に深く信仰された。
 「本郷夜市(よみせ)は著名なり。連夜商人露天を張る。毎月8日・12日・22日は薬師の縁日なり。縁日の夜は、殊に雑踏を極むるなり・・・」(新撰東京名所図絵より)
 本郷薬師の縁日の夜は、植木・雑貨・骨董などの店が並び、飲食店もでて大へん賑やかであった。牛込神楽坂善国時の毘沙門縁日と共に大変有名であった。御堂は戦災で焼失したが、昭和22年(1947)に改築され、さらに昭和53年(1978)に新築された。
 文京区教育委員会 昭和62年(1987)3月



所在地 文京区本郷5-27-11

  法真寺(樋口一葉ゆかりの桜木の宿)
 樋口一葉(1872~1896)の作品「ゆく雲」の中に、次の一文がある。
 「上杉の隣家は何宗かの御梵刹さまにて、寺内広々と桃桜いろいろ植わたしたれば、此方の二階より見おろすに、雲は棚曳く天上界に似て、腰ごろもの観音さま 濡れ仏にておわします。御肩のあたり、膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて・・・」
 文中の御梵刹がこの浄土宗法真寺で、この濡れ仏は、現在、本堂横に安置されている観音様である。こなたの二階とは、境内のすぐ東隣にあった一葉の家である。
 樋口家は明治9年(1876)4月、この地に移り住み、明治14年(1881)までの5年間(一葉4歳~9歳)住んだ。一葉家にとって最も豊かで安定していた時代であった。
 一葉は明治29年(1896)11月23日、旧丸山福山町(現西方1-17-8)で短いが輝かしい生涯を閉じた。その直前の初夏、病床で書いた雑記の中で、この幼少期を過ごした家を「桜木の宿」と呼んで懐かしんだ。「桜木の宿」は法真寺に向って左手にあった。
 文京区教育委員会 平成13年(2001)3月



所在地 文京区本郷1-2・6

  忠弥坂ちゅうやざか
 坂の上あたりに丸橋忠弥まるばしちゅうやの槍の道場があって、忠弥が慶安事件で捕えられた場所にも近いということで、この名がつけられた。
 道場のあった場所については諸説がある。
 ”慶安事件”は、忠弥が由井正雪とともに、慶安4年(1651)江戸幕府の転覆を企てて失敗におわった当時の一大事件であった。
 忠弥の名は、浄瑠璃や歌舞伎の登場人物としても有名である。
 平成元年(1989)3月 東京都文京区教育委員会


所在地 文京区本郷1-5-11

  金刀比羅宮東京分社



 金刀比羅宮東京分社境内には『水道橋稲荷神社』があります。



  松平賴重候下屋敷跡
 この地一帯(東京都立工芸高校 宝生能楽堂 金刀比羅宮東京分社)は高松松平家下屋敷のあったところである。
 高松松平家は松平賴重を藩祖とし徳川光圀とは兄弟の関係にあった。爾来現13代の賴明氏に到るまで松平家は、四国にあって教育と経済の振興に力を尽して来た。
 特筆すべきは12代賴寿氏で、氏は貴族院議長(1937年→1944年)として名声をはくし、わが国の議会政治史上に一点をとどめ、他方大正大震災の後、旧本郷区の要請で本郷学園を創設し、わが国教育面に大いなる貢献をした。
 昭和60年(1985)5月
 文京歴史研究会
近藤英明 松本弁吉 宝生英雄 浪越徳治郎 久留島忠 小林光二
荒川忠親 田中行成 田代喜一郎 及川省吉 石坂岩雄 岡崎道彦
茅島敬史 成沢偉三郎


所在地 文京区本郷1-8-3

浄土宗
 嶺松山 弘願院 昌清寺しょうせいじ
 


  徳川忠長と昌清寺
 当寺は浄土宗嶺松山弘願院昌清寺と称され、元和元年(1615)の創建である。
 開基は朝倉きよ(お清の方)、駿河大納言忠長(家光の弟)の乳母である。父2代将軍秀忠と母お江は忠長を寵愛し、忠長に次期将軍職を譲ろうと考えた。しかし、兄家光の乳母春日局が家康に直訴するに及んで、将軍は家光に決まった。忠長は駿府城主となったが、なお大坂城主を要請したため家光の怒りにふれ、領地は没収され、高崎城に幽閉され自害した。寛永10年(1633)忠長28歳であった。
 忠長死後、忠長夫人お昌の方(信長の曾孫)は剃髪し松孝院と号した。乳母のお清も剃髪し、お昌の一字をもらい、昌清尼と称した。松孝院は忠長の菩提を弔うにあたり公儀に配慮し、自分に代わって乳母のお清に昌清寺で忠長の供養をさせた。
 平成17年(2005)3月 文京区教育委員会


所在地 文京区本郷1-8-18

浄土真宗大谷派
 青柳山 興安寺

 


所在地 文京区本郷1-18~22・本郷2-18

  壱岐坂いきざか

 

 「壱岐坂は御弓町へのぼる坂なり。彦坂壱岐守屋敷ありしゆへの名なりといふ。按に元和年中(1615~1623)の本郷の図を見るに、此坂の右の方に小笠原壱岐守下屋敷ありて吉祥寺に隣れり。おそらくは此小笠原よりおこりし名なるべし。」(改撰江戸志)
 御弓町については「慶長・元和の頃御弓同心組屋敷となる。」とある。(旧事茗話)
 文京区 昭和48年(1973)3月





<碑文>
  壱岐坂の碑(壱岐殿坂の碑)
 江戸時代には、社寺や大名屋敷は、ほとんど移転することもなかったので交通の重要な目印となていました。この坂は昔、この地にあった小笠原壱岐守の下屋敷にちなんで壱岐殿坂と呼ばれていました。
 当時、小笠原家は、九州佐賀県唐津六万石の大名でした。壱岐坂は、白山通り(本郷1丁目20・22の間)から上り、東洋女子短大の所で通称大横町へ至る細い坂道です。


所在地 文京区本郷1-26

  東洋学園大学
  


  フェニックス・モザイク「岩間がくれの菫花」
    デザイン 今井兼次(1895~1987)
      建築家、早稲田大学名誉教授 日本芸術院会
 壁画は1961年(昭和36年)、東洋女子短期大学の新校舎建設に際して制作された。イギリスの詩人W.WordsworthによるLucy詩篇の一節、「岩間がくれの菫花」をモチーフとした作品であり、素材には主材料のタイルの他に学生、卒業生、教職員の持ち寄った陶窯の破片が用いられている。
 2007年(平成19年)、東洋学園大学の新校舎建設に当たり、学園のシンボルとして原型のまま保存することとした。
 2007年 東洋学園大学


所在地 文京区本郷1-28-32

  文京区で一番大きな樹木
  樹種         クスノキ
  指定番号      2-13
  指定年月日    昭和54年(1979)10月1日
  所有者(管理者) パークハウス楠郷臺管理組合
文京区みどりの保護条例に基づいて、保護指定をしている樹木です。このクスノキは、地上1.5mにおける幹廻りが8.5mあり、文京区内で一番大きな樹木です。
クスノキの若葉は、赤みがかった色から鮮やかな緑へとかわります。
5~6月にクリーム色の小さな花が咲き、秋に黒い実をつけます。
 文京区



 


所在地 文京区本郷1-33-17

  出世稲荷神社
 「この辺昔、春日局宅地なりし時、鎮守のため勧請なり。春日局・・・出世ありしゆえ当社の神徳を崇め、出世稲荷と崇め奉るなり。」『旧事名話』
 春日局は本名「ふく」父は明智光秀の重臣斎藤内蔵助利三である。戦いに敗れ、逆賊の家族として苦しい生活をした。後、徳川三代将軍家光の乳母となり、江戸城 大奥にて大きな力をもつに至った。
 このあたりの片側を将軍から拝領し、町屋をつくった『御府内備考』によれば神社の土地は拝領地28坪、外に27坪、小栗猶之丞より借地とある。享保2年(1717)焼失したので京都稲荷山の千年杉で御神体を作り祭った。春日町起源のゆかりのある場所である。
 文京区教育委員会 昭和60年(1985)3月

 


所在地 文京区本郷1

  新坂外記坂げきさか
 区内には、新坂と呼ばれる坂が6つある。『東京案内』に、「壱岐坂の北にありて小石川春日町に下るを新坂といふ」とある。『江戸切絵図』(嘉永6年〔1853〕尾張屋清七坂)によると、坂上北側に内藤外記という旗本の大きな屋敷があり、ゲキサカとある。新坂というが、江戸時代からあった古い坂である。
 この坂の一帯は、もと御弓町、その後、弓町と呼ばれ、慶長・元和の頃(1600年ごろ)御弓組の与力同心六組の屋敷がおかれ、的場で弓の稽古が行われた。明治の頃、石川啄木斉藤緑雨、内藤鳴雪などの文人が住んだ。
 東京都文京区教育委員会 昭和63年(1988)3月

 


所在地 文京区本郷1・2

  建部坂たけべざか初音坂はつねざか
 『新撰東京名所図会』に「富士見坂の北にある坂を建部坂といふ。幕士竹部氏の邸地あり因って此名に呼び做せり」とある。嘉永3年(1850)の『江戸切絵図』で近江屋板を見ると、建部坂の上り口西側一帯(現在の元町公園)に建部氏の屋敷が見える。直参、千四百石で、八百八十坪(約2900㎡)であった。
 『御府内備考』に次のような記事がある。建部六右衛門様御屋舗は、河岸通りまであり、河岸の方はがけになっている。がけ上は庭で土地が高く、見晴らしが良い。がけ一帯にやぶが茂り、年々鶯の初音早く、年によっては12月のうちでも鳴くので、自然と初音の森といわれるようになった。明和9年(1772)丸山菊坂より出火の節、やぶが焼けてしまったが、今でも初音の森といっている。初音の森の近くで、一名初音坂ともいわれた。
 文京区教育委員会 平成14年(2002)3月


所在地 文京区本郷1・4

  東富坂ひがしとみさか真砂坂まさござか
 本来の「東富坂」は、この坂の南を通る地下鉄丸ノ内線に沿った狭い急坂である。現在は、「旧東富坂」と呼んでいる。もともとの坂は江戸の頃、木が生い繁り、鳶がたくさん集ってっくることから「鳶坂」といい、いつの頃からか「富坂」とよぶようになったという。
 現在の東富坂は、本郷3丁目から伝通院まで、路面電車(市電)を通すにあたり、旧東富坂上から春日町交差点まで新しく開いたゆるやかな坂道である。この市電は、1908年(明治41年)4月11日に開通した。現在、文京区役所をはさんで反対側にある坂を、「富坂(西富坂)」と呼び区別している。
 文京区教育委員会 平成8年(1996)3月

 


所在地 文京区本郷2-7-8

  済世学舎発祥の地(濟生學舎)
 明治9年(1876)4月9日、この地に、医学者・長谷川泰(1842~1912)によって、「濟生學舎」が開校した。濟生=”広く民衆の病苦を済う”この願いを込めて、医術開業試験(当時)の予備教育を目ざして創立された学舎に、西洋医学を志す優れた学徒が多数集った。明治12年(1879)冬、火災により校舎を失い、学者長の自宅(現本郷2-7-8)とその隣地に移転、明治15年(1882)、現在の湯島2丁目(ガーデンパレスの地)に、本格的校舎を建設し、附属蘇門病院及び薬学部を付設して、「東京医学専門学校濟生學舎」と称した。
 かくして、学舎は隆盛の一途をたどったが、事情あって、明治36年(1903)8月31日、創設者・長谷川泰みずから廃校を布告して、28年間の歴史を閉じた。その間、2万1千余の男女学生が学び、9千6百余の医師を輩出し、わが国黎明期の医学振興、地域医療に果たした役割は極めて大きい。
 「濟生學舎」の廃校直後から、これを惜しむ教師・学生達によって、いくつかの医学講習会が設けられたが、その1つを母体にして明治37年(1904)4月、「私立日本医学校」が創立され、現在の「日本医科大学」(千駄木1丁目)へと発展し、濟生學舎教育の精神は受け継がれていった。また、学舎ゆかりの「東京女子医科大学」、「東京医科大学」も、それぞれの道を歩み発展していった。
 昭和63年(1988)3月 東京都文京区教育委員会


所在地 文京区本郷2-7

  本郷給水所公園








 本郷給水所公園内には『神田上水石碑』があります。

 


所在地 文京区本郷2-7 (本郷給水所公園)

 神田上水石樋
     平成二年十月 東京都知事 鈴木俊一 書



 徳川家康が入府した天正18年(1590)頃の江戸は、広大な武蔵野台地の東端に位置する小さな村落であったといわれている。
 神田上水は、家康の江戸入府にさいして、家臣大久保藤五郎忠行が開削した小石川上水がその起源といわれている。
 神田上水は、井の頭池の湧水を水源とする神田川に善福寺川、妙正寺川の水路を合わせ、目白台下野大洗堰に至り、水戸藩邸を通って神田川を懸樋で渡し、神田・日本橋方面の飲み水などに利用していた江戸時代から明治時代はじめの水道である。
 この石樋(石垣樋)は、昭和62年(1987)から平成元年(1989)にかけて発掘された神田上水幹線水路の一部を移築復原したものである。
 石樋の内部寸法は、上幅150cm、下幅120cm、石垣の高さ120~150cmで、長さ約180cm、幅60cm、厚さ30cm前後の蓋石がのせられている。
 江戸水道から現在の東京水道に至る400年を記念し、また、江戸時代遺跡の保存活用を図ることを目的としてここに移築復原したものである。
 平成2年(1990)10月 東京都水道局


                    神田上水石樋の由来碑


所在地 文京区本郷2-15

真言宗豊山派
 薬王山 三念寺

 


所在地 文京区本郷2-20

  三河稲荷神社

祭神 宇迦之御魂命うかのみたまのみこと



由緒
 当社は三州碧海郡上野庄稲荷山に鎮座して、徳川家康三州在城のみぎり崇敬浅からず、しばしば奇瑞(めでたい事の前兆)ありて神徳を感じ、開運の後、神領として三十石に山林境内を寄進あり、天正18年(1590)江戸入国にさいし社を吹上に造営奉遷した。
 慶長11年(1606)由緒ありて仲間小人拝領大縄地に移住の節、大縄地氏神として奉遷、元禄7年(1694)町地となるにおよび、本郷元町と改称、1丁目・2丁目の氏神として鎮座し、明治元年地続の浄土宗昌清寺囲内となるにおよび、元町1丁目3番地に200余坪の敷地を購い遷座、のち明治26年(1893)3月本郷給水所設置により、現在の所に遷座。大正12年(1923)9月の大震災により全焼、大正13年(1924)6月本殿・幣殿・神楽殿・社務所完成、社務所は昭和58年(1983)改築現在に至る。


所在地 文京区本郷2-35-14

 本郷教会
  


  教会の沿革
 明治19年(1886)10月10日本郷湯島で海老名弾正牧師が伝道を開始したのが弓町本郷協会の揺籃である。海老名弾正は洗礼を熊本洋学校の友人と共に受け、設立間もない同志社に学んだ。のちに一時母校の同志社総長を務めた時もあるが、当教会牧師として26年間、名誉牧師として8年間在籍した。歴代主任牧師は海老なのほか横井時雄、野口末彦、額賀鹿之助、田崎健作、大倉幾代、定家修身が務め、2003年4月以来は菅原力が務めている。
 会堂は明治24年(1891)本郷東竹町に建てるまでは、湯島、西片町、金助町、森川町、春木町などで集会が持たれていた。本郷東竹町の「本郷会堂」を明治31年(1898)の本郷大火で焼失したため、壱岐坂に新会堂を建設したが、関東大震災で再び焼失、大正15年(1926)、教会員中村鎭の設計による現教会堂が落成した。



  歴史的建造物
 現教会堂の本体部分は、昭和初期に数多く建てられた中村式鉄筋「コンクリートブロック」(鎭ブロック)造りの代表的な建造物である。設計者が用途と構造と美と経済との集中する其一点に建築の礎を置くことを志して設計し、自分で説明文を「中央美術」に発表している希な建物である。


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