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東京都文京区の歴史
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所在地 文京区関口1-7-4

 三方を台地に囲まれたこの地が一面の田畑であったころ、近くの江戸川(現在の神田川)がしばしば氾濫した。この地蔵尊は、明治の初めにいずこからか流れてきて、ここに留まったものと言い伝えられている。
 
 やさしいお顔の尊像に接した里人が、この地におまつりして以来、子育て・商売繁昌、また、この地域が戦災のほか大火に見舞われないことから「火伏せ地蔵」として敬まわれている。



 地元では「延命講(えんめいこう)」をつくり、地蔵尊をお守りしている。

  平成元年(1989)11月 東京都文京区教育委員会
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所在地 文京区関口2-11・目白台1-1

  胸突坂
 目白通りから蕉雨園(もと田中光顕旧邸)と永青文庫(旧細川下屋敷跡)の間を神田川の駒塚橋に下る急な坂である。坂下の西には水神社(神田上水の守護神)があるので、別名「水神坂」ともいわれる。東は関口芭蕉庵である。
 坂がけわしく、自分の胸を突くようにしなげれば上れないことから、急な坂には江戸の人がよくつけた名前である。
 ぬかるんだ雨の日や凍りついた冬の日に上り下りした往時の人々の苦労がしのばれる。
 平成10年(1998)3月 文京区教育委員会





所在地 文京区関口2-2-7

  目白坂
 西方清戸(清瀬市内)から練馬経由で江戸川橋北詰にぬける道筋を「清戸道」といった。主として農作物を運ぶ清戸道は目白台地の背を通り、このあたりから音羽谷の底地へ急傾斜で下るようになる。
 この坂の南面に、元和4年(1618)大和長谷寺の能化秀算僧正再興による新長谷寺があり本尊を目白不動尊と称した。
 そもそも三代将軍家光が特に「目白」の号を授けたことに由来するとある。坂名はこれによって名付けられた。『御府内備考』には「目白不動の脇なれば名とす」とある。
 かつては江戸時代「時の鐘」の寺として寛永寺の鐘とともに庶民に親しまれた寺も明治とともに衰微し、不動尊は豊島区金乗院にまつられている。
  目白台の空を真北に渡る雁 
     稀に見る雁の四・五十羽かも  窪田空穂(1877-1967)
 昭和63年(1988)3月 東京都文京区教育委員会



所在地 文京区関口2-1

  江戸川公園
 江戸川橋を起点として神田川沿いに西方約1キロメートルの地域は江戸川公園、新江戸川公園の中間に松尾芭蕉ゆかりの「関口芭蕉庵」を有する風致地区である。俳人松尾芭蕉(1644-1694)は延宝5年(1677)(34才)から延宝8年(1680)までの約4年間に亘り此処に居住して神田上水の改修工事にたずさわったと言われている。俳聖と神田上水工事とは、まことに妙な取り合わせのように思われるが、彼の前身が伊賀国(三重県)藤堂藩の武士であったことや、藤堂藩(藩祖藤堂高虎以来築城土木、水利の技術に長じていた)が当時幕府から神田上水の改修工事を命じられていたことなど考え合わせると、彼が工事監督として、この改修工事に関係したことも納得がいくのである。





 江戸川公園内には『江戸川公園碑』、『神田上水取水口の石柱』、『神田上水取水口大洗堰跡』、『大井玄洞翁の胸像』、『大洗堰の由来碑』があります。


所在地 文京区関口2-1 (江戸川公園)

 井の頭池を源流とするわが国最初の神田上水は、関口の大洗堰(現在の大滝橋あたり)で水位をあげ、上水路(白堀)で水戸上屋敷(現後楽園一帯)に入れた。そこから地下を樋で、神田、日本橋方面に給水した。
 この大洗堰の取水口に、上水の流水量を調節するため「角落」と呼ばれた板をはめ込むための石柱が設けられた。
 ここにある石柱は、当時のもので、昭和8年(1933)大洗堰の廃止により撤去されたものを移した。
 なお、上水にとり入れた余水は、お茶の水の堀から隅田川へ流された。
 昭和58年(1983)12月 文京区役所


所在地 文京区関口2-1 (江戸川公園)

文京区指定史跡
 神田上水取水口大洗堰跡

 徳川家康の江戸入り(天正18年〔1590〕)の直後、井の頭池から発する流れに、善福寺池、妙正寺生けの流れを落合であわせ、関口で取水して水路を定めたのが神田上水である。
 大洗堰で水は二分され、余水は江戸川に落し、他は上水として水戸殿に給水し、神田橋門外付近で二筋に分かれた。1つは、内堀内の大名屋敷に給水し、他の1つは本町方面、日本橋で北の町屋に給水した。
 大正末年には、水質・水量とも悪くなり、昭和8年(1933)に取水口はふさがれた。
 上水道として最も古い神田上水の、取水口である大洗堰の跡は、永く歴史に残したいものである。
 昭和62年(1987)3月 文京区教育委員会



所在地 文京区関口2-1 (江戸川公園)

   大井玄洞翁の胸像 
 生誕 安政元年(1855)加賀藩金沢に生まれる
 明治33年(1900)より小石川区(現文京区)在住
 逝去 昭和5年(1930)8月15日 伊豆にて没す(享年75才)
江戸川(現神田川)の治水事業は沿岸の人々にとって、永年の願いであった。明治43年(1910)の大洪水の後、玄洞翁は、人々の願いの実現に努力し、大正2年(1913)護岸改修に着工させ、大正8年(1919)に完成させた。
人々は、置きなの功績をたたえ、永くその徳を伝えるために、昭和3年(1928)、江戸川公園内の当所に胸像を建てた。
 昭和58年(1983)12月 文京区役所



所在地 文京区関口2-1 (江戸川公園)

 かって、この地には神田上水の堰があり、古来より風光明媚な江戸名所として知られていました。上水の改修工事には俳人松尾芭蕉も関与し、その旧居(関口芭蕉庵)は400m程上流に復元されています。
 大正8年(1919)、東京市はこの地を江戸川公園として整備し、史跡(大洗堰)の保存に努めましたが、昭和12年(1937)になり江戸川(神田川)の改修により失われたので、翌昭和13年(1938)、堰の部材を再利用して由来碑を建てました。
 次の碑文は、その文面です。由来碑はすでに失われましたが、近年この碑文のみが見つかりましたのでここに設置致しました。
 平成3年(1991)3月 文京区役所


    神田上水舊蹟碑記
徳川氏府ヲ江戸ニ開クノ初大久保主水忠行命ヲ受ケテ上水開設ノ工ヲ起シ多摩郡井之頭池ノ水ヲ用ヒ此処ニ堰ヲ設ケテ神田ヨリ市中ニ給水ス神田上水即チ是ナリ此処ハ地勢高峻老樹翁尉タル目白臺下ノ景勝ニ位シ亦四季ノ景物ニ富メルヲ以テ古来江戸名所トシテ聞ユル事久シ俳聖芭蕉嘗テ上水道修築ニ従ヒテ此処ニ寓シ遺阯今ニ傳ヘテ風流ノ余韻ヲ慕フモノ尠カラズ
大正八年(1919)附近水道附属地ヲ江戸川公園ト為シ上水史蹟ノ保存ニ努メシガ昭和12年(1937)3月江戸川改修ノ工成ルニ至ツテ遂ニ舊観ヲ失ヘリ仍テ茲ニ舊洗堰遺材ノ一部ヲ用ヒ碑ヲ建テ由来ヲ刻シ以テ追憶ノ資トナス
 昭和13年(2001)3月 東京市


所在地 文京区関口2-11-3

  関口芭蕉庵
 この地は、江戸前期の俳人松尾芭蕉が、延宝5年(1677)から延宝8年(1680)まで、神田川改修工事に参画し、「龍隠庵」と呼ばれる庵に住んだと伝えられている。後に世人は「関口芭蕉庵」と呼んだ。
 享保11年(1726)、芭蕉野33回忌に当たり、芭蕉の木像を祀る芭蕉堂が建てられた。その後、去来・其角・嵐雪・丈草の像も堂に安置された。
 芭蕉は、早稲田田んぼを琵琶湖に見立て、その風光を愛したと言われている。そこで、寛延3年(1750)宗瑞・馬光らの俳人が、芭蕉の真筆「五月雨にかくれぬものや瀬田の橋」の短冊を埋めて墓とした。この墓を「さみだれ塚」と称した。塚は芭蕉堂の近くにある。
 芭蕉庵の建物は、昭和13年(1938)3月、近火で類焼したが、昭和13年(1938)8月再建された。しかし、昭和20年(1945)5月の戦災で類焼した。
 敷地内には、芭蕉堂・さみだれ塚・朱楽菅江歌碑・伊藤松宇の句碑などがあり、往時をしのぶことができる。
 平成10年(1998)3月 文京区教育委員会



 関口芭蕉庵地内には『芭蕉堂』、『芭蕉句碑』、『朱楽菅江狂歌辞世碑』、『伊藤松宇句碑』、『さみだれ塚』があります。



所在地 文京区関口2-11-3 (関口芭蕉庵)

 素堂の弟子 馬光が中心となり
五月雨にかくれぬものや 瀬田の橋
の芭蕉の短冊を埋めて墓とした
 寛延3年(1750)


所在地 文京区関口2-11-3 (関口芭蕉庵)

 真中に富士 聳えたり國の春 
          昭和10年(1935)


所在地 文京区関口2-11-3 (関口芭蕉庵)

執着の心や 娑婆に残るらん
 吉野の桜 更科の月

  寛政11年(1799)


所在地 文京区関口2-11-3 (関口芭蕉庵)

芭蕉翁の33回忌に木像が出来ここに祀らる
         享保11年(1726)


所在地 文京区関口2-3-19

浄土宗
 法樹山 養国寺

 旗本の松平家(18松平のひとつ三木)の菩提所として養国寺ができました



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