忍者ブログ
東京都文京区の歴史
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。



所在地 文京区後楽1-6-6 (小石川後楽園)

  特別史跡 特別名勝 
    
小石川後楽園
    面積 70.847㎡  開園 昭和13年4月3日



 小石川後楽園は、旧水戸徳川家の江戸上屋敷の後楽で、林泉美に富む廻遊式築山、山水庭園である。
 江戸時代初め、徳川御三家の一つである水戸家の祖徳川頼房は、寛永6年(1629)三代将軍家光から与えられたこの邸地に廻遊式庭園を築造した。二代目藩主光圀も本園の築庭には力を注ぎ、当時、隣国明の遣臣で我が国に亡命していた朱舜水の意見を用い、今見る様な中国趣味豊かな手法を加味した。
 因みに後楽園の名は、光圀が舜水に命じて選んだもので、宗の范文正の「岳陽楼記」中ー士当先天下之憂而憂、後天下之楽而楽ーからとったものである。その後も、たびたびの改修や震、火災で、創築時代の壮観さこそ失われたものの遂次手が加えられるなど幾多の時代の変遷を経て現在に至っている。
 本園は、土の香ただよう奥深い山地と、樹林に包まれた静寂な水面の中に各地の名所を写し、自然の美と人口の砂とを兼ねそなえた庭園芸術の粋を見せている。また、園内は数々の園亭祠堂があり、梅、桜、藤、華菖蒲など四季折々の花が豊富で都会では貴重な緑として、訪れるものに憩いの場を提供している。
 なお本園は、大正12年(1923)3月、国の史跡名勝に、また、昭和27年(1952)3月、文化財保護法により、特別史跡および特別名勝に指定された。


 
The Koishikawa Korakuen was first laid out in 1629 by Tokugawa Yorifusa,but it's construction was completed by his successor Mitsukuni,an enlithtened lord of the Tokugawa family of Mito,with the assistance of China,who came under the lord's protection.
Originally,he area of the garden was 63 acres,but it was reduced to one-fourth owing to a city-planning of Tokyo,and the remaining area was placed under the vontrol of the fomer Army Arsenal after the Meiji Restoratio.
It was designated by the Cultural Property Protection Committee as an important special place of scenic and historic interest,and was turned over to the Tokyo Metropolitan Government for management in 1936.Korakuen is the oldest of all the gardens in Tokyo ans it is a typical stroll-garden built in early days of the Tokugawa Era.
In the central part of Korakuen there is a p;acid lakelet with winding walks runnnin around,stone lanterns,trees and arched bridges arranged Skillfully in harmony with their surroundings.
Miniature veiws imitating noted Japanise and Chinise scenic,spots such as Xihu and Lushan in China are presented,which please the eyes of the visitors.

愛宕坂

 京都愛宕山の坂にならって造られたもので、47段の石段からなっている。

円月橋

 朱舜水の設計と指導により名工「駒橋嘉兵衛」が造った。橋が水面に写る形が満月になることからこの名がつけられた。後に8代将軍吉宗が江戸城吹上の庭に造ろうとしたが遂に果たせなかったといわれている。
This bridge is called "Engetsu-kyo"or full moon bridge beause a full moon is formed by joining the figure of this bridge to its refrection on the water.

音羽の滝

 京都・清水の「音羽の滝」にならって名づけられた。もとは萱門外の水車により神田上水の水を汲み上げ樋により小廬山の側に流していたが、元禄の地震のとき水流が破壊され岩組だけが残された。現在は大泉水から水を引いて滝を復元した。

九八屋

 江戸時代の風流な酒亭の様子を現した。この名の由来は「酒を飲むに昼は九分夜は八分にすべし」と酒飲みならず万事控えるを良しとする、との教訓による。戦災により焼失したが昭和34年(1959)に復元した。

小町塚

 塚石が常陸の小野の産地であることから、光圀が戯れて小町塚と呼んだといわれる。

松原

 往時は松うっそうとして空もみえざりしと伝えられる。光圀最も珍重せる所にして将軍来園の際にも「これ天下の威光をもっても能はず」と感賞せられたる由なり。

清水観音堂跡

 京都清水寺を写した観音堂があったが、大正12年(1923)の関東大震災で焼失した。

西行堂跡

 藩祖頼房の時代に、御鞍打師「小野荘兵衛」作の西行法師の木像を安置したことから西行堂と名づけられた。ここにある西行の歌碑は、9代斉昭の「駐歩泉」の碑にちなみ同夫人が建てたものである。なおこの堂は戦災により焼失した。

駐歩泉

 9代斉昭が、西行堂側の流れを西行の和歌「道のべに しみづながるる 柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ」にちなみ「駐歩泉」と命名し、自ら筆をとり碑を建てたものである。

田端

 2代光圀が嗣子綱條の夫人に農民の苦労を教えようと造った田圃で、現在は毎年文京区内の小学生が5月に田植え、9月に稲刈りを行っている。

唐門跡

 内庭から後園に入る門で、唐様の極彩色の彫刻をもった壮麗な建築物で朱舜水の書いた「後楽園」の扁額がかけられていたが、戦災で焼失した。


                  藤田東湖先生遺跡


             藤田東湖先生護母致命之處碑

安政2年(1855)10月2日江戸を襲った大地震の際、水戸藩の碩学者藤田東湖は母を救わんとして臣死した後世有志相謀り、文京区後楽1-3-40(旧水戸藩武家屋敷跡)東湖在住跡地へこの碑を建立したが、周辺は今や企業の所有に帰したるを以って特に碑を此処へ移して永久に東湖の譲母致命の所以を伝えんと欲するものである。
 昭和54年(1979)3月吉日 茨城県人会連合会

得仁堂

 小石川後楽園の造営を完成させた水戸二代藩主徳川光圀(1628~1700)は、得仁堂を創設し、泰伯・伯夷・叔齊像を安置しました。光圀が堂をつくり三像を祀ったことには、その徳を慕い、手本としていた光圀の強い思いが示されています。
 三像のうち伯夷・叔齊像は、現存しています。

 「伯夷・叔齊」とは、中国古代・殷代の小国の王子兄弟の名前です。二人は、跡継ぎになることを互いに譲り合い、国を去ったといわれています。これに対し国民は、「聖の清なるもの」と誉め称えました。兄弟は善政を行っていると評判の文王を慕い周の国へ行きましたが、時の王は亡くなり、子の武王が継いでいました。武王が父の葬儀も済まないうちに殷の君主を征伐しようとすることを知り、父子の道、君臣の道に背くと諌めたが聞き入れられませんでした。そこで二人は、「周に仕えて俸禄を受けるのは恥」として山にこもり、ワラビで命をつないでいましたが、ついに餓死したといわれています。
 光圀は、6歳の時に兄をさしおいて世継ぎと定められ、苦しみ続けた自らの身の上と重ね、18歳で「伯夷・叔齊」の物語を読み非常に感銘を受けました。光圀は「仁を行い得た人たち」を祀る得仁堂を建立し、伯夷・叔齊の木像を納め参詣したと言われています。

 二代光圀が建てた園内で最古の建物で、光圀が感銘を受けた「伯夷叔齊」の木像を安置した。堂の名は論語の「仁を求めて仁を得たり」による。

八卦堂跡

 2代光圀7歳のとき、将軍家光に謁見したおり「文昌星」像を頂戴した。後に光圀は文学を好むようになり、文昌星を思い起こし八卦堂を造りその像を安置したという。なおこの堂は大正12年(1923)の関東大震災で焼失した。


               陸軍造兵廠東京工廠跡碑


                  瘞鷂碑(えいようひ)

 7代治紀は将軍家から賜った鷹を大切にしていた。鷹は治紀が没した4年後に亡くなったため、8代斉脩がこれを哀しみ碑を建てたものである。

PR


所在地 文京区後楽1-6-6 (小石川後楽園石垣)

江戸城外堀石垣を再利用した石積



 左手築地塀の石垣の一部(プレート設置個所)は、江戸城鍛冶橋門北側外堀城趾(千代田区丸の内1丁目)から出土した石垣の石材を使い、本園の作られた江戸時代初期(17世紀初頭)の「打ち込みハギ」と呼ばれる石積の技法で再現しました。
 石材には、備中(岡山県)成羽藩主山崎家の(山)をはじめ石垣を築いた大名を表す「刻印」や石割の際の「矢穴」が残っています。数字は発掘調査で出土したときつけた番号です。



忍者ブログ [PR]
サイト内検索
アクセス解析
プロフィール
HN:
永山
性別:
男性