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東京都文京区の歴史
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所在地 文京区本駒込6-16-3

   六義園

 本園は元禄15年(1702)武州川越藩主柳沢出羽守吉保が築造した庭園で、江戸の大名庭園中現存する日本で屈指の名園です。昭和15年(1940)8月、史跡名勝天然記念物保存法によって名勝の指定を受け、昭和28年(1953)4月特別名勝となり、日本でも特に優れた名園として大切に保存されています。
 庭園の形式は江戸時代の庭園にみる所謂回遊式築山泉水庭と呼ばれます。園の中央に池を設け、中島を置き島に妹背山があり、東南部に平坦な芝生、その他の部分には大小多数の築山が起伏し、園の北部に最大の築山藤代峠を設け、各所に桃の茶屋・滝口の茶屋・吟花亭・熱海の茶屋・つつじの茶屋・芦辺の茶屋等あづまやを配しています。その後改修、また今次大戦により焼失したものもあります。またこの庭園の作庭については、吉保自身の培った文芸趣味の思想に基づき、自分から設計7年余りの歳月を費やし池を掘り、山を築き流れを見せて、紀州和歌の浦の景勝を、あるいは「万葉集」や「古今集」から名勝を選び園内に八十八景を写しだすという園の構成です。
 「六義園」の名は、中国の古い書物である毛詩に配されている賦・比・興・風・雅・頌の六義に由来する和歌の六体によるもので、吉保自身「むくさのその」と呼ばせ、館を「六義館」とかいて「むくさのたち」と読ませています。
 このような庭園も吉保が没した後は荒れる一方であったが、文化7年(1810)にいたりざ漸く整備され、明治10年(1877)頃附近の藤堂・安藤・前田の各氏邸とともに、岩崎弥太郎氏の別邸の一部となるに及んで再び昔の美しさを取り戻し、昭和13年(1938)1月岩崎氏から庭園を中心として3万余坪を市民の観賞・休養の地として、東京市に寄贈され同昭和13年(1938)10月東京市の管理のもとに公開され今日にいたっています。 
 東京市

                    RIKUGIEN
 Rikugien was established in 1702 by feudal lord Yanakisawa Yoshiyasu.Who was sell-known for his literary accomplishments.
 The name Rikugien was taken from the six pronciples of composing Japanese waka poetry which were derived from an ancient Chinese book "Mao-Chin".
 It is typical "kai-yu(go-round)" style garden with,88 spots of literary significance arranged  long a path surrounding a pond with an islet.
 Tokyo Metoropolitan Gobernment



六義園は岩崎家別邸だった
 六義園から歩いて2分、不忍通りをはさんだところに日本最大の東洋学の研究図書館、「東洋文庫」があります。平成23年(2011)10月20日に、この東洋文庫のミュージアムが新たにオープンしました。
 ところでこの東洋文庫は、三菱第三代社長の岩崎久弥によって作られたものですが、その建物があるのは、かつては六義園の敷地だったところです。さらには、この六義園はかつて岩崎久弥の別邸として使われていたことがあります。
 柳沢吉保によって造られた六義園は、7代保申の頃に明治維新を迎え、新政府に上地され、173年間にわたる柳沢家別邸も終わりをつげました。その後1878年(明治11年)、三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎が、近隣の藤堂家、前田家、安藤家の土地屋敷とともにこの地を手に入れ、六義園に岩崎家別邸を設けました。岩崎家は1874年(明治7年)に上京し、今の文京区湯島4丁目に居をかまえ六義園の地とは目と鼻の先ほどの所に住んでいました。



大名屋敷を次々と手に入れる岩崎家
 『・・・その後は、さしもの名園も次第に頽廃に傾き、維新後は全く荒蕪に帰したが、岩崎弥太郎は1878年(明治11年)、清澄庭園と同じ頃これを手に入れ、その後されに隣接の藤堂・安藤・前田諸家の邸地を併せ、総計12万坪(約396,000㎡)を合してここに別邸を営んだ。その地域は現在の文京区上富士前、同駕籠町及豊島区巣鴨2丁目、同駒込染井に跨がる広大な土地である。川田小一郎があまり大きすぎるがどうするつもりかと尋ねたところ、岩崎弥太郎は「俺は板橋辺まで買い、国家の役に立つことをやってみるつもり」と語ったという。』
(『岩崎久弥伝』岩崎家の伝記)



岩崎家による庭園の復興
 維新後、幕末の混乱期を経て庭は荒廃していましたが、岩崎家が別邸を設けたことから庭園の本格的な復興が始まりました。その修復工事は弥太郎から弥之助(弥太郎の弟)、久弥(弥太郎の長男)へと受け継がれ、園内には茅葺の「桃の茶屋(現心泉亭)」、「滝見茶屋」、「吟花亭」、岩崎家の熱海の別荘から移築した「熱海茶屋(現吹上茶屋)」、柱がツツジの枝幹で作られた「つつじ茶屋」、「芦辺茶屋」などの建築物も配され、ようやく往時の美しさを取り戻しました。蓬莱島や佐渡の赤石など、園内に配された名石は岩崎時代のものも多く残っています。



「樹木数万本」と園国の「庭石」

 『六義園が弥太郎の在世中どの程度まで復旧工事をすすめたがは明らかではないが、弥太郎の没後、弥之助(弥太郎の弟)は1886年(明治19年)に修復の工を進め、新たに下総の山林(後の「末広農場」)から樹木数万本を移植し、各地から庭石を集めて、往時の景観を復元した。また園内各所に瀟洒な亭榭を建て、六義館の跡には小邸を造築した。』(『岩崎久弥伝』岩崎家の伝記)



弥太郎と庭園
 弥太郎には若い時から庭園の趣味がありました。土佐の井ノ口村(現安芸市井ノ口)の生家には、青年時代につくったという大小の石を日本列島に配した小庭が残っています。
 『吾は性来これという嗜好なけれど、常に心を泉石丘壑に寄す。これを以って憂悶を感ずる時は名庭園を見る。(中略)ひとり加賀邸の庭園は無数の巨巌大石を配置し藤樹点綴して豪宕の趣き深山の風致あり。若し吾に庭園を造るときあればかくの如きものに倣はんと欲す』(『岩崎久弥伝』岩崎家の伝記)
 彼は広大な規模を有して、泉石樹林が自然の風致を示す庭園を好み、特に石を愛しました。庭園の修築に際しては人を派遣して各地の石を集めました。よい石がみつかったという知らせに対する返書が残っています。
 『太湖石十個御買取の旨承知致し候。右は窓外の竹蕪の間に位置するに宜しく、弘大の池畔砌中に撒布羅列するに不適なり。当地にて美濃石は珍重すると聞く。定めて御申越のものは篠島、佐久間辺りよりの出品なるべきか。』(『岩崎弥太郎伝』岩崎家の伝記)



日露戦争と六義園
 1905年(明治38年)10月、日露戦争から凱旋した連合艦隊司令長官東郷平八郎大将をはじめとする将兵6,000人を岩崎家が招待し、この六義園を中心都市一大戦勝祝賀会を催しました。それまで一般には公開されなかったこの六義園が、戦勝ということと久弥氏の国に対する恩顧からか、初めて公開されたことは、庭園の持つ意義から重要な歴史的事実といえます。



高級住宅地「大和郷」
 大正後期から、六義園を含む一帯12万坪に及ぶ岩崎家の地所は、「大和郷」と名づけられた計画的な都市開発により高級住宅地として分譲されました。久弥はその中心にある六義園を1938年(昭和13年)に東京市に寄付しました。 



<当時の様子を各新聞で次のように取り上げています>
 

4月16日付「中外新聞」
 ”柳沢の栄華を偲ぶ六義園、市民に公開 岩崎久弥男、市へ寄贈”
 江戸時代から残る帝都有数の名園本郷区駒込上富士前町の六義園が市の公園として公開されることになった。これは名園として名高い深川の清澄庭園を市に寄贈した岩崎久弥男の所有にかかるもので今回男の好意により寄贈することになったもので総面積3万坪(700万円)、5代将軍綱吉の時、権勢並ぶものなき老中柳沢吉保の下屋敷として元禄年間築造されたもので全国の名木珍石多く園内の十二境八景はそっくりそのまま保存されている。井下公園課長は15日園内を岩崎男と共に一巡したが市ではこの純日本式庭園に続いて隣にスポーツ施設も行い遅くも9月初旬には公開の予定で開園の暁には清澄庭園後楽園と共に帝都の三名園が市民の行楽を待つことだろう。

4月16日付「東京旭新聞」
 ”天下の「六義園」を岩崎男が寄付 市で体位向上に開放”
 帝都第一の名園として海外に喧伝されている清澄庭園15,000坪先に東京市に寄附した岩崎久弥男が今度は国民の体位向上に利用してもらいたいと15日、本郷駒込別邸3万坪(時価700万円)を東京市に寄附申出を行った。
 東京市では市長代理として井下公園課長が岩崎邸を訪問して寄附を受領し、近代的スポーツ公園としての施設を行い600万市民に開放することとなった。
 この別邸は徳川5代将軍綱吉の頃飛ぶ鳥も落とす権勢を誇った老中柳沢出羽守吉保の下屋敷として築造したもので諸侯は先を争って諸国の名木名石を持寄ったので工事は驚くべき短日月で完成し詩歌に所謂六体六義の語に因んで六義園と名づけ園内の十二境八景は、その美麗な風致を天下に誇ったものである。

6月7日付「東京日日新聞」
 六義園が東京市に寄付されたが、これがまた心なきお役所技師によって、コンクリートとペンキとブリキの犠牲になって寄付者の好意を了らしめないように祈るものである。
 公園に「静的」と「動的」あり、日本の明暗は概ね前者に属する。例えば井の頭はいわば詩園であり、瞑想の池であり、さすらいの林道であり、年長者の庭であるべきであった。市に賜ってから、その寂びた池は、調子外れのペンキ塗りボートが徒らに水鳥を騒がせ、安っぽい路燈や標柱や俗っぽい獣の檻は似面非なる「場末日比谷」を造った。ついには児童の健康にもよくないあの冷水のプールを設備した。日本の風景美、建築美を毒するものは、生のままのペンキとセメントである。しかも便利と経済とは、これらを必需品とする。ここにそれらの「考慮されたる適用法」と「真の意味の擬装」が要求されるのではないか。
 オリンピックもすでに迫り、俗悪不体裁な看板、電柱、沿線広告とともに、その建築と造園と舗道と一切が日本的に設備され調和されるべく、その筋のブレインスタッフの協力再検討を要することと思う。
 
1938年(昭和13年)4月27日に寄附受領をした東京市は、園路整備(豆砂利敷)と人止柵設置、および松の手入を行い、同1938年(昭和13年)10月6日開園しました。

 六義園園内には『東京市石碑・内庭大門』、『新脩六義園碑』、『吟花亭跡』、『レンガ外周塀』があります。
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所在地 文京区本駒込6-16-3 (六義園)

 江戸時代中期に作庭された文化財庭園に、幕末以降にもたらされた技術を用いたレンガが使われている理由には、この文化財庭園の歴史的な変遷が大きく関わっています。
 江戸時代当時の柳澤家の屋敷範囲と、明治年間以降の岩崎家の敷地とは、文化財庭園として指定された現在の六義園の範囲よりも東西南北にそれぞれ広がっていました。指定文化財範囲から外れた、これらの土地では、日露戦争の祝勝会が開催され、第二次大戦当時には児童向けの科学館なども置かれていました。従って、改修前のレンガ塀は、第二次大戦後に、国指定の文化財として整備する前後の時期に、管理用に構築されたものであり、岩崎家所有当時の外周塀ではありません。しかしながら、柳澤家から岩崎家、そして東京市(府)から東京都へと、所有者や管理者が移り変ってゆく中で、岩崎家が所有していた湯島や本所などの屋敷でも採り入れられた、洋風の意匠であるレンガ塀も、歴史的な変遷を物語る貴重な文化財といえます。


所在地 文京区本駒込6-16-3 (六義園)

 作庭当時、この附近に吟花(華)亭という建物が作られ、お花見をするための場よとして使われていたようです。柳澤吉保の側室、正親町町子(おおぎまちまちこ)は、「松陰日記」という源氏物語風の記録を残しており、中では六義園の様子も多く描かれています。この吟花亭の周囲には桜の花が咲き誇り、吉野山の桜にたとえられています。
 岩崎家の時代にもあらためてここに吟花亭が作られました。今の建物跡は、そのころのものです。


所在地 文京区本駒込6-16-3 (六義園)

  新脩六義園碑しんしゅうりくぎえんひ
 六義園は作られた当時から評判が高く、完成して4年後の宝永3年(1706)10月には、ついには当時の霊元上皇が、六義園の景勝地十二境八景を選び賜り、加えて公家たちの和歌を添えて吉保に下賜しています。上皇が一幕臣の庭園に和歌を贈るというのは極めて異例のことでした。
 これほど評判が高かった六義園ですが、3代目信鴻が没した寛政4年(1792)以後は、ほとんどその利用がなく、荒廃してしまいました。そこで、文化6年(1809)、4代保光は、家臣に命じて復旧工事を行いました。このとき、失われた八十八境の石柱を補いましたが、やはり園内にあった十二境八景の碑はそのほとんどが失われていました。
 この時に建てられたのが、この「新脩六義園碑」です。この石碑の後面にはこの復旧工事の経緯が、また前面には「六義園八景」の名称が記されています。


所在地 文京区本駒込6-16-3 (六義園)

 昭和13年(1938)に、当時の所有者であった岩崎家の岩崎久弥によって、六義園は東京市に寄附されました。この石碑は、その時の記念として建てられたもので、六義園の成り立ちも記されています。その後は公開された庭園として現在に至っています。     
 岩崎家が六義園を所有していたのは明治維新によって政府の上地されたのち、三菱グループの創始者岩崎弥太郎が明治11年(1878)に手に入れたのが始まりです。その後、岩崎久弥の本邸・別邸として使われたり、あるいは後に総理大臣に就任した政治家幣原喜重郎(岩崎弥太郎の女婿)が、一時仮住まいとしていたこともありました。   
 右手の大きな門は「内庭大門」と呼ばれ、岩崎家所有当時の雰囲気を残していますが、現在の門は東京市によって再建されたものです。かつては門をくぐった先のしだれ桜付近に、岩崎家の「御殿」と呼ばれる邸がありました。


所在地 文京区本駒込1-1-5

浄土宗
 増上山 潮泉寺



 潮泉寺には『縁引地蔵尊』があります。


所在地 文京区本駒込1-3-15

浄土宗
 本然山 静閑院 徳性寺

 


所在地 文京区本駒込1-8-13

臨済宗妙心寺派
 瑞祥山 仙龍寺(仙竜寺)
 平安時代後期に盛んに行われた定朝様の像容を示し、割矧造の手法もその時期の典型的なものである。
 後世面部を割って玉眼を入れたため、面相がやや改変されているが、平安時代最末期ないし鎌倉時代初期の作として貴重なものである。
 像高69.6cm ヒノキ材

面部および胸腹部金泥塗 その他漆箔 螺髪彩色 肉髻珠
 文京区教育委員会 昭和56年(1981)1月





 


所在地 文京区本駒込1-20-20

天台宗
 大聖山 南谷寺
 
 この不動尊は、もとは赤目不動尊と言われていた。元和年間(1615~1624)万行和尚が、伊賀国(いまの三重県)の赤目山で、黄金造りの小さな不動明王像を授けられ、諸国をめぐり、いまの動坂の地に庵を結んだ。
 寛永年間(1624~1644)、鷹狩りの途中、動坂の赤目不動尊に立ち寄った三代将軍家光から、現在の土地を賜わり、目赤不動尊とせよとの命を受け、この地に移った。それから目赤不動尊として、いっそう庶民の信仰を集めたと伝えられている。
 不動明王は、本来インドの神で、大日如来の命を受けて悪をこらしめる使者である。剣を持ち、怒りに燃えた形相ながら、お不動さんの名で庶民に親しまれてきた。江戸時代から、目赤、目白、目黄、目青、目黒不動尊は五色不動として、その名が知られている。
 目白不動尊は、戦災で豊島区に移るまで区内の関口2丁目にあった。
 文京区教育委員会 平成3年(1991)3月




 目赤不動尊



















所在地 文京区本駒込3-6

 あさ香社跡(落合直文終焉の地)
 落合直文(歌人・国学者1861~1903)は仙台藩主鮎貝盛房の次男として生まれ、国学者落合直亮の養子となった。
 東京大学を卒業し、第一高等中学校や東京専門学校で教鞭をとりながら、国学の研究に従事した。この間、居を転々としたが、明治26年(1893)旧小石川掃除町から、旧浅嘉町78番地(当地)に移り住んだ。翌明治27年(1894)2月町名にちなんで、「あさ香社(浅香社)」という歌塾を創設し、新しい短歌運動をおこした。社友には、鮎貝塊園(実弟)、与謝野鉄幹、尾上柴舟ら30人ほど集まった。ここから、新誌社(鉄幹)、いかづち会(柴舟)など、和歌革新運動が起り、発展していった。直文は和歌のみでなく、「大楠公」「孝女白菊」などの名作も残している。明治36年(1903)この地で没した。
 「木がらしよなれがゆくへの静けさの おもかげ夢見いざこのよねむ」(直文の辞世)
 文京区教育委員会 平成12年(2000)3月



所在地 文京区本駒込3-7-16

浄土宗
 善龍山 常徳寺






                              おその地蔵

 常徳寺には『身代わり地蔵尊』があります。


所在地 文京区本駒込1-5-22

臨済宗東福寺派
 天澤山 龍光寺(竜光寺)



 龍光寺には『吉丸一昌墓』、『「早春賦」歌碑』、『金毘羅大権現』、『三宅観瀾墓』、『稲葉迂斎墓』、『恩田鶴城墓』、『栗山潜鋒墓』、『中村元禮墓』、『深見十左衛門墓』、『石合江村墓』、『餘吾古庵墓(硯壽院天元長居士)』、『餘吾古庵墓(仁衛院頣神了存居士)』、『丸亀京極家墓所
 丸亀京極家墓所には『丸亀京極家初代 京極高知 正室 市姫墓』、『丸亀京極家3代 京極高或 正室 墓』、『丸亀京極家4代 京極高矩 正室 墓』、『丸亀京極家4代 京極高矩 養子 京極高迢墓』、『丸亀京極家5代 京極高中 正室 幸子墓』、『丸亀京極家5代 京極高中 子 京極高行墓』、『丸亀京極家6代 京極高朗 長男 京極高美墓』、『丸亀京極家6代 京極高朗 長男 京極高美 正室 満墓』、『丸亀京極家6代 京極高朗 継室 墓』、『京極分家の墓』、『亀山石川家の墓』があります。
唐津小笠原家墓所』、 
 唐津小笠原家墓所には『唐津小笠原家3代 小笠原長祐 正室 墓』、『唐津小笠原家4代 小笠原長重墓』、『唐津小笠原家5代 小笠原長煕墓』、『唐津小笠原家5代 小笠原長煕 正室 墓』、『唐津小笠原家7代 小笠原長恭墓』、『唐津小笠原家8代 小笠原長堯墓』、『唐津小笠原家8代 小笠原長堯 正室 墓』、『唐津小笠原家8代 小笠原長堯 子 小笠原長瑗墓』、『唐津小笠原家8代 小笠原長堯 子 小笠原長瑗 正室 時子墓』、『唐津小笠原家8代 小笠原長堯 子 墓』、『唐津小笠原家9代 小笠原長昌墓』、『唐津小笠原家10代 小笠原長泰墓』、『唐津小笠原家11代 小笠原長会墓』があります。

 


所在地 文京区本駒込1-5-22 (龍光寺)

 稲葉迂斎墓
 

名正義、初名通經、通称 稲葉十左衛門
佐藤直方に学び、唐津藩儒者たり。著書に迂斎文集、和書集外敷多し。寶暦10年(1760)11月10日没。年77。



所在地 文京区本駒込1-5-22 (龍光寺)

 恩田鶴城墓 1739~1804
江戸時代中期~後期の儒者。下総古河藩(茨城県)藩士。備前唐津(佐賀県)に生まれたが、藩主土井利里の転封で古河にうつる。藩校盈科堂学監(校長)原双桂に学び、作事小奉行などを経て盈科堂教授。詩文にも優れた。

 


所在地 文京区本駒込1-5-22 (龍光寺)

 吉丸一昌墓

 歌舞伎に出てくる侠客深見十左衛門、「早春賦」の作詞者

 明治6年(1873)~大正5年(1916)国文学者・作詞家
 現大分県臼杵市で生まれ、苦学して東京帝国大学国文科を卒業した。上京時の一時期、この龍光寺に身を寄せた。
 明治42年(1909)東京音楽学校の教授として招かれ、唱歌の編集に携わったが、徳育的な文部省唱歌に飽きたらず、言文一意の子どもの目線にたった『新作唱歌』全10集を明治45年(1912)から大正3年(1914)にわたり発表した。
 作曲は、東京音楽学校を卒業した若い作曲家を起用し、「おたまじゃくし」「蛍狩」「早春賦」などを作った。これらは、後の童謡運動のさきがけとなるものであった。
 その代表作「早春賦」は『新作唱歌』第3集に収録され、中田章作曲による美しいメロディーにのり、大正2年(1913)に発表された当時から女学生を注しんん歓迎され、今も広く親しまれている。
 大正5年(1916)3月7日、心臓発作のため、駒込動坂町(現千駄木4丁目)の自宅において、43歳の若さで急逝した。今は、縁のあった龍光寺に眠っている。
 文京区教育委員会 平成19年(2007)3月

 






所在地 文京区本駒込1-5-22 (龍光寺)

 金毘羅大権現
龍光寺には嘗て境内(現在の龍光寺公園付近)に「金毘羅大権現」がお祀りされており、根津に花街があった慶応から明治中期に掛けては特に縁日が盛んでありました。
その後花町が州崎に移転されるに至り、規模は小さくなりましたがそれでも昭和の初期までは縁日が続いておりました。
昭和20年(1945)3月、空襲により御堂を焼失致しますが、その際先々代荻洲和尚が戦火の中金毘羅様を肌身離さずお守りし、近年先代道治和尚が御堂の復興を試みましたが体調不例にて遷化し今日に至っておりました。平成19年(2007)6月、檀家総代と協議の結果「金毘羅堂」の復興を発願致しこの度戦後60年余を経て山門正面奥に復興を見るに至りました。
「金毘羅大権現」は海上守護、大漁満足、さらに五穀豊穣、殖産興業、中でも招福除災、家門繁栄のご利益が多大とされております。
また江戸城の裏鬼門を守る「虎ノ門・金刀比羅宮」は四国丸亀城主・京極高和公が讃岐より自身の江戸屋敷の勧請されたものであり、その高和公と唐津小笠原忠知公によって建立されたのが当山でございます。戦火により資料も焼失し定かではございませんが、そのようなご縁からも当山に「鎮守」として金毘羅様がお祀りされたと推察でき、由緒あるまた霊験灼かな金毘羅様をお参り頂くことは、皆様にも大きな御加護のあることと存じます。
今後とも皆様の御参詣をお待ち申し上げております。
 龍光寺







所在地 文京区本駒込1-5-22 (龍光寺)

 栗山潜鋒墓

 「大日本史」を編纂

 寛文11年(1671)~宝永3年(1706)。江戸中期の儒学者。山城国淀の人。潜鋒は号。桑名松雲に学び徳川光圀に招かれ「大日本史」の編集に従事する。のち、彰考館総裁に抜擢された。
 著書に「保健大記」「倭史後編」などがある。
 文京区教育委員会 平成10年(1998)3月


所在地 文京区本駒込1-5-22 (龍光寺)

 三宅観瀾墓
 
 彰孝館総裁を務めた江戸中期の朱子学者
 延宝2年(1674)~享保3年(1718)。江戸中期の朱子学派の儒学者。京都の人。はじめ浅見絅斎、後に木下順庵に学び木門十哲の一人といわれた。元禄12年(1699)徳川光圀に仕えて彰考館に入り「大日本史」の編集に従事する。のち彰考館総裁となり、さらい新井白石の推薦を受けて幕府の儒官となる。著書に「中興鑑見」「烈士報讎録」などがある。
 文京区教育委員会 平成10年(1998)3月




所在地 文京区本駒込1-5-22 (龍光寺)

 深見十左衛門墓(1641~1730)
 近世初期の侠客、始め藤堂家に仕えたが、浪人して男伊達の群に入り江戸市中を横行した。金の義歯、ひろく抜きあげた額ぎわ、異様な鬚髯、朱鞘の大脇差などの異装で世人の目をあつめた。晩年、庵を駒込龍光寺に結び自体と号した。享保15年(1730)3月18日歿す。行年90歳。
 昭和20年(1945)3月の戦災により損傷したので茲に之を改修す。
 昭和53年(1978)4月吉日 山崎實建之
 


所在地 文京区本駒込1-5-22 (龍光寺)

 石合江村墓
名文之、通称文臓。
古畑玉函に学ぶ詩文に名あり。玉函病むやよく勤め、またその交友藤森天山の為に力を盡す。
明治6年(1873)1月1日没。年56。









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