忍者ブログ
東京都文京区の歴史
[1] [2] [3] [4] [5] [6]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

所在地 東京都文京区白山1丁目・5丁目

 『妙清寺(みょうせいじ)に薬師堂有之候に付、里俗(りぞく)に薬師坂と愛唱(あいとなえ)申候』(『御府内備考』)坂上の妙清寺に薬師寺があったので、薬師坂と名づけられた。また、坂下に浄雲院(じょううんいん)心光寺があったので、浄雲寺坂とも呼ばれた。また近くに白山神社があり、旧町名が白山前野で、白山坂ともいわれるなど、別名の多い坂の一つである。

 『新選東京名所図会』には、『薬師堂は、土蔵造一間半四面。「め」の字の奉額、眼病全快者連盟の横額あり』、と明治末年の姿を記している。

 このお薬師は特に眼病に霊験あらかたであったようである。土蔵造は、江戸の防火建築で、湯島本郷辺の町屋が土蔵塗屋づくりを命じられたのは、享保15年(1730年)の大火後である。現存するものに無縁坂の講安寺本堂がある。

 平成14年(2002)3月 文京区教育委員会

PR

仰高門(ぎょうこうもん)

所在地 東京都文京区湯島1-4-25

  湯島聖堂 史跡 大正11年(1922年)3月 指定  

 寛永9年(1632年)、尾張藩主徳川義直林道春(羅山)をして、上野忍ヶ丘に先聖殿を造営せしめしに始まる。その回禄(火災)の災に罹るや、元禄3年(1690年)、将軍綱吉之を今の地に移して、大成殿と稱せり。後、寛政11年(1799年)大成殿及び杏壇・入徳・仰高諸門を再建し、明治維新の際、大学を此地に置くに及び、一旦 孔子 以下の諸像を撤去せしも、後、もとに復せり。
 建造物は暫らく東京博物館の一部に充てたりしたが、大正12年(1923年)9月1日、関東大震災の為、入徳門・水屋等を除くの外、悉く焼亡せしを昭和10年(1935年)4月4日鐡筋混凝立構造(てっきんこんくりーとこうぞう)に依りて原型に複せり。
   昭和11年(1936年)3月 文部省

  入徳門

 創建は古く、雄略天皇2年(458年)と伝えられる。太田道灌が再興、徳川家康は江戸入りの際、神領5万石を寄進している。
 菅原道真を祭るこの神社は、学問の神様として別名湯島天神としても広く知られている。

 杏壇門

 境内には銅製の鳥居や、迷子探しの奇縁氷人石がある。
 また、江戸時代には谷中感王寺(天王寺)目黒不動と並び三富と呼ばれ、幕府公認の富くじ(富突き)を発行した。
 泉鏡花作の新派の名作『婦系図』の舞台としても有名で、新派の記念碑や鏡花の筆塚もある。

 大聖殿      

 湯島聖堂と孔子
「孔子」は2500年ほど前、中国の魯の国(今の山東省曲阜市)昌平郷に生れた人、その教え「儒学」は東洋の人々に大きな影響を与えました。儒学に傾倒した徳川5代将軍綱吉は、1690年(元禄3年)この地に「湯島聖堂」を創建、孔子を祀る「大成殿」や、「学舎」を建て自らも「論語」の講釈を行うなど学問を奨励しました。1990年(平成2年)聖堂は創建300年を迎えています。

 昌平坂学問所跡
1797年(寛政9年)幕府は学舎の敷地を拡げ、建物も改築し、孔子の生まれた地名をとって、「昌平坂学問所」(昌平黌ともいう)を開きました。学問所は、明治維新(1868年)に至るまで70年間、官立の大学として江戸時代の文教センターの役割を果たしました。

 近代教育発祥の地
明治維新により、聖堂は新政府の所管となり、明治4年(1871)に文部省が置かれたほか、国立博物館(今の東京上野)、東京師範学校(今の筑波大学)、東京女子師範学校(今のお茶の水女子大学)などが置かれ、聖堂は近代教育発祥の地となったのです。
 
 現在の湯島聖堂
もとの聖堂は、4回もの江戸大火にあって焼失、再建を繰り返し、さらに大正12年(1923)関東大震災でも焼失しました。今の建物は1935年(昭和10年)鉄筋コンクリート造りで、再建したものです。ただし、入徳門は1704年(宝永元年)に建てられたものがそのまま残っており、貴重な文化財となっています。

 境内には『孔子銅像』があります。
                           

所在地 東京都文京区湯島1-4-25 (湯島聖堂)

孔子ハ約二千五百年前ノ春秋時代ノ魯ノ國ノ人デアル幼ニシテ父ヲ喪ヒ下級官吏ヨリ身ヲ起シ國王定公ニ用ヒラレ大夫トシテ國政ニ参與シテ十數年大イニ治績ヲ擧ゲタガ後ニ意見ガ合ハズ退任シ門弟ト共ニ諸國ヲ周遊シテ容レラレズ晩年故郷ニ歸リ人ノ人タル所以ノ道ヲ説イテ七十餘歳デ逝去シタソノ子孫ハ治亂興亡ヲ經テモ相傳ヘテ直系七十七代孔徳成ニ至ツテ居テソノ孔子廟ト孔家歴代ノ墳墓ハ山東省ノ曲阜ニ今猶嚴然トシテ存シテ居ル孔子ノ言行録デアル論語ハ今日ても廣ク世界中ニ讀マレテヰルカクノ如キハ他ニ比類ガナイ今ヤ洋ノ東西ヲ問ハズ人類ガ擧ゲテ混迷ニ陥ル時ニ萬世ノ師表タル孔子ノ忠恕ノ道ヲ傳ヘ仁義ノ徳ヲ明ラカニスルノハ喫緊ノコトデアリマタ吾人ノ責務デアル

コノ孔子ノ銅像ハ昭和四十九年臺北城中らいおんずくらぶ周宏基會長等ガ湯島聖堂ニ参拝シ元禄以来三百年ノ由緒アル史跡ニ感銘ヲ受ケ國立臺灣師範大學開明徳教授ニ依嘱製作シ寄贈シタモノデ唐ノ呉道子ノ筆ト傳ヘル孔子畫像ヲ基調トシテ鋳造シ昭和五十年十一月三日文化節ニ建立シタ丈高十五尺重量ニ噸ノ世界最大ノ孔子像デアル茲ニ聊カ建立ノ由來ヲ記シ世ニ傳ヘル

  昭和五十七年十月先儒祭ノ日

            財團法人 斯文會

所在地 東京都文京区湯島1 ・ 千代田区

 神田川対岸の駿河台の淡路坂(あわじざか)と並ぶので相生坂という。
 『東京案内』に、「元禄以来聖堂のありたる地なり、南神田川に沿いて東より西に上る坂を相生坂といい、相生坂より聖堂の東に沿いて、湯島坂に出るものを昌平坂という。昔はこれに並びてその西になお一条の坂あり、これを昌平坂といいしが、寛政中聖堂再建のとき境内に入り、遂に此の坂を昌平坂と呼ぶに至れり」とある。そして後年、相生坂も昌平坂とよばれるようになった。
 
昌平とは聖堂に祭られる孔子の生地の昌平郷にちなんで名づけられた。 

これやこの 孔子の聖堂 あるからに

       幾日湯島に い往きけむはや  

                   法月歌客

   昭和53年(1978年)3月 文京区教育委員会

所在地 文京区湯島1千代田区 

(橋下) 神田川 JR御茶ノ水駅

 


 聖橋は、東京市により関東大震災の復興橋りょうとして、総工費72万4807円で2年3か月の歳月を要して昭和2年(1927)7月に完成した。
 神田川の美しい景観の中にあってこの橋のデザインには、とくに気を使い、橋長92.47m、幅員22mのモダンなアーチ橋が架けられた。
 橋名の由来は、北側にある国指定の史跡で江戸幕府の官学所「湯島聖堂」と、南側にある国指定の重要文化財でビザンチン風の建物「日本ハリストス正教会復活大聖堂」(通称ニコライ堂)の両聖堂にちなんでいる。
 聖橋は、近くの鋼ラーメンの御茶ノ水橋、アーチの昌平橋万世橋とともに「東京の著名橋」に選定され、神田川の名所となっている。
 平成4年(1992)3月 東京都



所在地 文京区関口1-7-4

 三方を台地に囲まれたこの地が一面の田畑であったころ、近くの江戸川(現在の神田川)がしばしば氾濫した。この地蔵尊は、明治の初めにいずこからか流れてきて、ここに留まったものと言い伝えられている。
 
 やさしいお顔の尊像に接した里人が、この地におまつりして以来、子育て・商売繁昌、また、この地域が戦災のほか大火に見舞われないことから「火伏せ地蔵」として敬まわれている。



 地元では「延命講(えんめいこう)」をつくり、地蔵尊をお守りしている。

  平成元年(1989)11月 東京都文京区教育委員会


所在地 文京区春日1-16-30 (講道館)

   生誕百秊記念
嘉納治五郎先生像
 昭和三十五年十月廿八日



所在地 文京区本郷1

 むかし、文京区役所があるあたりの低地をニヶ谷といい、この谷をはさんで、東西に二つの急な坂道があった
 東の坂は、木が生い繁り、鳶がたくさん集ってくるので「鳶坂」といい、いつの頃からか、「富坂」と呼ぶようになった。(『御府内備考』による)富む坂、庶民の願いがうかがえる呼び名である。
 また、ニヶ谷を飛び越えて向き合っている坂ということから「飛び坂」ともいわれた。明治41年(1908)、本郷3丁目から伝通院まで開通した路面電車の通り道として、現在の東富坂(真砂坂)が開かれた。それまでは、区内通行の大切な道路の一つであった。
 東京都文京区教育委員会  昭和63年(1988)3月


所在地 文京区大塚3-28-7 (全林野会館)

屋久杉は下屋久営林署が小杉谷事業所を大正13年間開設以来昭和44年(1969)6月終山するまで44年間、小杉谷事業所を中心に伐採されてきましたが、終山と同時に全林野九州地方本部の要求に基づいて現在の栗生事業所を開設



同じ屋久杉でも樹齢1千年未満を「子杉」、1千年以上を「屋久杉」と呼んでおり世界最高の高令巨木であります。現存する最大の屋久杉は屋久町小杉谷標高1300メートル地点にあり、樹令推定7200年、樹高33メートル、胸高周囲16.1メートルの「縄文杉」であります。この盤木は栗生事業所内で伐採されたもので「栗生大盤」と命名し広く関係者の 参考に供したい。



1.樹種   屋久杉
1.原生地  鹿児島県熊毛郡屋久町栗生
1.樹令   2500年
1.直径   最大1.60メートル
1.材積   0.362立方メートル
 昭和52年(1977)2月  全林野労働組合九州地方本部



所在地 文京区春日1-15

      文京区と春日局
 文京区「春日」の地名は春日局が乳母として仕えた三代将軍徳川家光より拝領した土地に由来し昔は春日殿町とよばれていました。



 また春日局の菩提寺麟祥院が湯島にあり文京区は春日局と歴史的に深い縁があります。昭和64年(1989)1月より1年間NHK大河ドラマ「春日局」が放映されました。文京区ではこれを契機として「文京区春日局推進協議会」を設立し区民の皆様と共に区内の活性化、地域の振興を図ることを目的として主主の事業を推進しました。ここに本地業を記念して春日局像を建立することにいたしました。

 平成元年(1989)12月吉日
文京区春日局推進協議会
文京区 文京区産業連合会 東京商工会議所文京支部 文京区観光協会 文京区商店街連合会 文京区町会連合会 文京区旅館協同組合

 
春日局和歌
西に入る 
  月を誘い
    法を得て
今日ぞ火宅を
  のがれけるかな


所在地 文京区小石川5

 「町内より東の方 松平播磨守御屋敷之下候坂にて、里俗団平坂と唱候 右は先年門前地之内に団平と申者舂米商売致住居仕罷候節より唱始候由申伝 年代等相知不申候」と『御府内備考』にある。
 団平という米つきを商売とする人が住んでいたので、その名がついた。
 何かで名の知られた人だったのであろう。庶民の名の付いた坂は珍しい。
 この坂の一つ東側の道の途中(小石川5-11-7)に、薄幸の詩人石川啄木の終焉の地がある。北海道の放浪生活の後上京して、文京区内を移り変わって4か所目である。明治45年(1912)4月13日朝、26歳の若さで短い一生を終わった。
  椽先(えんさき)にまくら出させて、
   ひさしぶりに、
    ゆふべの空にしたしめるかな
   石川啄木(直筆ノート最後から2首目)
 文京区教育委員会  平成5年(1993)3月



所在地 文京区小石川5-9 (竹早公園)

 1928年(昭和3年)4月1日、竹早小学校がこの地で開校した。旧竹早町と久堅町の一部を学区として、近隣4校からの5年生以下の児童472名と教員14名、12学級をもってスタートした。現在の小石川図書館とテニスコートがある場所で、校舎は木造2階建であった。校名は、所在地の竹早町からとった。
 校訓”剛健、協同、勤勉”のもとに、充実した新しい学校創りを目指して、児童も教職員も、保護者も努力を傾けた。
 残念なことに、昭和20年(1945)5月25日の空襲により校舎が焼失し、1946年(昭和21)3月、在校生、卒業生の愛惜の想いを残し、18年間の歴史の幕を閉じた。
   校歌(一部) 
     理想も高く伸び出づる 
       竹の剛さを健げさを
         永劫(とわ)に矜(ほこ)りの竹早校
  文京区教育委員会  平成8年(1996)3月



所在地 文京区小石川4,5

    環三通り桜並木の由来
 かつて、このあたりは常陸府中藩主松平播磨守の上屋敷で、坂下には千川(小石川)が流れ、「播磨田圃」といわれた田圃があった。戦後できたこの坂は、播磨屋敷の跡地を通り、「播磨田圃」へ下る坂ということで、「播磨坂」とよぶようになった。
 坂の桜並木は、戦後間もない昭和22年(1947)、地元の人たちが植えたのがはじまりである。昭和28年(1953)には小針平三氏他、有志からの苗木寄贈により桜並木が生まれた。その後、並木植樹帯の整備がすすみ、平成7年(1995)には装いを新たにした桜並木が完成した。
 昭和43年(1968)には「桜まつり」が地元町会・婦人会の協力で開始され、今日まで桜の名所として区民に親しまれている。
 文京区教育委員会  平成8年(1996)3月



所在地 文京区春日1 ~ 小石川2

 「とび坂は小石川水戸宰相光圀卿(みつくにきょう)の御屋敷のうしろ、えさし町より春日殿町へ下る坂、元は此処に鳶多して女童の手に持たる肴をも舞下りてとる故とび坂と云」と『紫一本』にある。鳶が多くいたので、鳶坂、転じて富坂となった。
 また、春日町交差点の谷(ニヶ谷)をはさんで、東西に坂がまたがって飛んでいるため飛坂ともいわれた。そして、伝通院の方を西富坂、本郷の方を東富坂ともいう。都内に多くある坂名の一つである。
 この近く礫川小学校裏にあった「いろは館」に島木赤彦が下宿し、”アララギ”の編集にあたっていた。
 「富坂の冬木の上の星月夜 いたくふけたりわれのかへりは」
   島木赤彦(本名 久保田俊彦 1876~1926)
 文京区教育委員会   平成12年(2000)3月



所在地 文京区本郷1

 この神田川の外堀工事は元和年間(1615~1626)に行われた。それ以前に、ここにあった高林寺(現向丘2丁目)の境内に湧き水があり、”お茶の水”として将軍に献上したことから、「お茶の水」の地名がおこった。
 『御政府備考』によれば「御茶之水は聖堂の西にあり、この井名水にして御茶の水に召し上げられしと・・・」とある。
 この坂は神田川(仙台堀)に沿って、お茶の水の上の坂で「お茶の水坂」という。坂の下の神田川に、かって神田上水の大樋(水道橋)が懸けられていたが、明治34年(1901)取りはずされた。

 お茶の水橋低きに見ゆる水のいろ
     寒む夜はふけてわれは行くなり
                  島木赤彦(1876~1926)

 平成9年(1997)3月  文京区教育委員会


所在地 文京区目白台1-1

 江戸時代、ここは武家地であった。幕末には細川越中守の下屋敷、抱え屋敷であったが、明治15年(1882)からは細川家の本邸となった。その後昭和34年(1959)、都立公園として開園したが、昭和50年(1975)4月、文京区に移管され、文京区立新江戸川公園となった。
 庭園はもとの細川邸をそのまま公園にしたもので、規模は比較的小さいが、素朴さの中に、江戸情緒が漂う回遊式泉水庭園である。目白台の地形の変化を巧みに利用し、名園と呼ぶにふさわしい景観を作り出している。また春・夏に咲く花々、秋の紅葉、そして雪景色は見事である。
 「松聲閣」と呼ぶ園内の建物は、細川家の学問所であった。現在は区民の集会所として利用されている。
 文京区教育委員会 平成13年(2001)3月









  新江戸川公園とその周辺
 新江戸川公園は、幕末まで熊本藩主・細川家の下屋敷があったところで、明治15年(1882)細川家の本邸となりました。台地と低地の地形を利用して、立体的な眺めを作りだしている池を中心にした回遊式の庭園です。
 この近くに「関口芭蕉庵」、細川家の「永青文庫」、「東京カテドラル聖マリア大聖堂」、「日本女子大学・成瀬記念講堂」少しはなれたところに「護国寺」など、名所・旧跡があります。



      SHIN EDOGAWA PARK AND ITS VICINITY
Shin Edogawa Park is where the residence of the HOSOKAWA family was oribinally locered,until the end of the EDO era. The HOSOKAWA family were theDaimyo of Kumamoto,and in the 15year of Meiji(1882)this house became their main residence.
This rarden was designed for strolling,and in its comstruction the naturallay of the land was taken abvantage of its hills and valleys giving a three-demensional landscape with the pond at the center.
Neally,there are many points of interest,marked with sign,such asa SEKIGUCHI BASHO AN,EISEIBUNKO,building of the HOSOKAWA family,ST.MARY'S CATHEDRAL?JAPANWOMENS UNIVERSITY, THE NARUSE'SAUDITORIUM,and a short distance away you can also see the GOKOKUJI temple and other ponds interest.





 



所在地 文京区後楽1-6-6 (小石川後楽園)

  特別史跡 特別名勝 
    
小石川後楽園
    面積 70.847㎡  開園 昭和13年4月3日



 小石川後楽園は、旧水戸徳川家の江戸上屋敷の後楽で、林泉美に富む廻遊式築山、山水庭園である。
 江戸時代初め、徳川御三家の一つである水戸家の祖徳川頼房は、寛永6年(1629)三代将軍家光から与えられたこの邸地に廻遊式庭園を築造した。二代目藩主光圀も本園の築庭には力を注ぎ、当時、隣国明の遣臣で我が国に亡命していた朱舜水の意見を用い、今見る様な中国趣味豊かな手法を加味した。
 因みに後楽園の名は、光圀が舜水に命じて選んだもので、宗の范文正の「岳陽楼記」中ー士当先天下之憂而憂、後天下之楽而楽ーからとったものである。その後も、たびたびの改修や震、火災で、創築時代の壮観さこそ失われたものの遂次手が加えられるなど幾多の時代の変遷を経て現在に至っている。
 本園は、土の香ただよう奥深い山地と、樹林に包まれた静寂な水面の中に各地の名所を写し、自然の美と人口の砂とを兼ねそなえた庭園芸術の粋を見せている。また、園内は数々の園亭祠堂があり、梅、桜、藤、華菖蒲など四季折々の花が豊富で都会では貴重な緑として、訪れるものに憩いの場を提供している。
 なお本園は、大正12年(1923)3月、国の史跡名勝に、また、昭和27年(1952)3月、文化財保護法により、特別史跡および特別名勝に指定された。


 
The Koishikawa Korakuen was first laid out in 1629 by Tokugawa Yorifusa,but it's construction was completed by his successor Mitsukuni,an enlithtened lord of the Tokugawa family of Mito,with the assistance of China,who came under the lord's protection.
Originally,he area of the garden was 63 acres,but it was reduced to one-fourth owing to a city-planning of Tokyo,and the remaining area was placed under the vontrol of the fomer Army Arsenal after the Meiji Restoratio.
It was designated by the Cultural Property Protection Committee as an important special place of scenic and historic interest,and was turned over to the Tokyo Metropolitan Government for management in 1936.Korakuen is the oldest of all the gardens in Tokyo ans it is a typical stroll-garden built in early days of the Tokugawa Era.
In the central part of Korakuen there is a p;acid lakelet with winding walks runnnin around,stone lanterns,trees and arched bridges arranged Skillfully in harmony with their surroundings.
Miniature veiws imitating noted Japanise and Chinise scenic,spots such as Xihu and Lushan in China are presented,which please the eyes of the visitors.

愛宕坂

 京都愛宕山の坂にならって造られたもので、47段の石段からなっている。

円月橋

 朱舜水の設計と指導により名工「駒橋嘉兵衛」が造った。橋が水面に写る形が満月になることからこの名がつけられた。後に8代将軍吉宗が江戸城吹上の庭に造ろうとしたが遂に果たせなかったといわれている。
This bridge is called "Engetsu-kyo"or full moon bridge beause a full moon is formed by joining the figure of this bridge to its refrection on the water.

音羽の滝

 京都・清水の「音羽の滝」にならって名づけられた。もとは萱門外の水車により神田上水の水を汲み上げ樋により小廬山の側に流していたが、元禄の地震のとき水流が破壊され岩組だけが残された。現在は大泉水から水を引いて滝を復元した。

九八屋

 江戸時代の風流な酒亭の様子を現した。この名の由来は「酒を飲むに昼は九分夜は八分にすべし」と酒飲みならず万事控えるを良しとする、との教訓による。戦災により焼失したが昭和34年(1959)に復元した。

小町塚

 塚石が常陸の小野の産地であることから、光圀が戯れて小町塚と呼んだといわれる。

松原

 往時は松うっそうとして空もみえざりしと伝えられる。光圀最も珍重せる所にして将軍来園の際にも「これ天下の威光をもっても能はず」と感賞せられたる由なり。

清水観音堂跡

 京都清水寺を写した観音堂があったが、大正12年(1923)の関東大震災で焼失した。

西行堂跡

 藩祖頼房の時代に、御鞍打師「小野荘兵衛」作の西行法師の木像を安置したことから西行堂と名づけられた。ここにある西行の歌碑は、9代斉昭の「駐歩泉」の碑にちなみ同夫人が建てたものである。なおこの堂は戦災により焼失した。

駐歩泉

 9代斉昭が、西行堂側の流れを西行の和歌「道のべに しみづながるる 柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ」にちなみ「駐歩泉」と命名し、自ら筆をとり碑を建てたものである。

田端

 2代光圀が嗣子綱條の夫人に農民の苦労を教えようと造った田圃で、現在は毎年文京区内の小学生が5月に田植え、9月に稲刈りを行っている。

唐門跡

 内庭から後園に入る門で、唐様の極彩色の彫刻をもった壮麗な建築物で朱舜水の書いた「後楽園」の扁額がかけられていたが、戦災で焼失した。


                  藤田東湖先生遺跡


             藤田東湖先生護母致命之處碑

安政2年(1855)10月2日江戸を襲った大地震の際、水戸藩の碩学者藤田東湖は母を救わんとして臣死した後世有志相謀り、文京区後楽1-3-40(旧水戸藩武家屋敷跡)東湖在住跡地へこの碑を建立したが、周辺は今や企業の所有に帰したるを以って特に碑を此処へ移して永久に東湖の譲母致命の所以を伝えんと欲するものである。
 昭和54年(1979)3月吉日 茨城県人会連合会

得仁堂

 小石川後楽園の造営を完成させた水戸二代藩主徳川光圀(1628~1700)は、得仁堂を創設し、泰伯・伯夷・叔齊像を安置しました。光圀が堂をつくり三像を祀ったことには、その徳を慕い、手本としていた光圀の強い思いが示されています。
 三像のうち伯夷・叔齊像は、現存しています。

 「伯夷・叔齊」とは、中国古代・殷代の小国の王子兄弟の名前です。二人は、跡継ぎになることを互いに譲り合い、国を去ったといわれています。これに対し国民は、「聖の清なるもの」と誉め称えました。兄弟は善政を行っていると評判の文王を慕い周の国へ行きましたが、時の王は亡くなり、子の武王が継いでいました。武王が父の葬儀も済まないうちに殷の君主を征伐しようとすることを知り、父子の道、君臣の道に背くと諌めたが聞き入れられませんでした。そこで二人は、「周に仕えて俸禄を受けるのは恥」として山にこもり、ワラビで命をつないでいましたが、ついに餓死したといわれています。
 光圀は、6歳の時に兄をさしおいて世継ぎと定められ、苦しみ続けた自らの身の上と重ね、18歳で「伯夷・叔齊」の物語を読み非常に感銘を受けました。光圀は「仁を行い得た人たち」を祀る得仁堂を建立し、伯夷・叔齊の木像を納め参詣したと言われています。

 二代光圀が建てた園内で最古の建物で、光圀が感銘を受けた「伯夷叔齊」の木像を安置した。堂の名は論語の「仁を求めて仁を得たり」による。

八卦堂跡

 2代光圀7歳のとき、将軍家光に謁見したおり「文昌星」像を頂戴した。後に光圀は文学を好むようになり、文昌星を思い起こし八卦堂を造りその像を安置したという。なおこの堂は大正12年(1923)の関東大震災で焼失した。


               陸軍造兵廠東京工廠跡碑


                  瘞鷂碑(えいようひ)

 7代治紀は将軍家から賜った鷹を大切にしていた。鷹は治紀が没した4年後に亡くなったため、8代斉脩がこれを哀しみ碑を建てたものである。



所在地 文京区後楽1-6-6 (小石川後楽園石垣)

江戸城外堀石垣を再利用した石積



 左手築地塀の石垣の一部(プレート設置個所)は、江戸城鍛冶橋門北側外堀城趾(千代田区丸の内1丁目)から出土した石垣の石材を使い、本園の作られた江戸時代初期(17世紀初頭)の「打ち込みハギ」と呼ばれる石積の技法で再現しました。
 石材には、備中(岡山県)成羽藩主山崎家の(山)をはじめ石垣を築いた大名を表す「刻印」や石割の際の「矢穴」が残っています。数字は発掘調査で出土したときつけた番号です。



所在地 文京区湯島3-20

  実盛坂さねもりざか 
 『江戸誌』によれば「・・・湯島より池の端の辺りをすべて長井庄といへり、むかし斎藤別当実盛の居住の地なり・・・」とある。また、この坂下の南側に、実盛塚や首洗いの井戸があったという伝説めいた話が『江戸砂子』や『改撰江戸志』にのっている。この実盛のいわれから、坂の名がついた。
 実盛とは長井斎藤別当実盛のことで、武蔵国に長井庄(現・埼玉県大里郡妻沼町)を構え、平家方に味方した。寿永2年(1183)、源氏の木曽義仲と加賀の国篠原(現・石川県加賀市)の合戦で勇ましく戦い、手塚太郎光盛に討たれた。
 斎藤別当実盛は出陣に際して、敵に首をとられても見苦しくないようにと、白髪を黒く染めていたという。この話は『平家物語』や『源平盛衰記』に詳しく記されている。
 湯島の”実盛塚”や”首洗いの井戸”の伝説は、実盛の心意気にうたれた土地の人々が、実盛を偲び、伝承として伝えていったものと思われる。
 平成14年(2002)3月  文京区教育委員会

 


所在地 文京区湯島4台東区

  無縁坂むえんざか
 『御府内備考』に、「称仰院前通りより本郷筋へ往来の坂にて、往古 坂上に無縁寺有候に付 右様相唱候旨申伝・・・」とある。
 団子坂(汐見坂とも)に住んだ、森鴎外の作品『雁』の主人公岡田青年の散歩道ということで、多くの人びとに親しまれる坂となった。その『雁』に次のような一節がある。「岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れこむ不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。・・・」
 坂の南側は、江戸時代四天王の一人・康政を祖とする榊原式部大輔の中屋敷であった。坂を下ると不忍の池である。

  不忍の 池の面にふる春雨に 
    湯島の台は 今日も見えぬかも

  岡麓(本名三郎・旧本郷金助町生まれ1877~1951・墓は向立2丁目高林寺)
 昭和55年(1980)1月 文京区教育委員会


所在地 文京区湯島3-30

 この歌は、石川啄木(1886~1912)の明治43年(1910)の作で、『悲しき玩具』に収められている。文字は、原稿ノートの自筆を刻んだ。



 当時石川啄木は、旧弓町の喜之床(現本郷2-38-9・新井理髪店)の2階に間借りしていた。そして、一家5人を養うため、朝日新聞社に校正係として勤務し、二晩おきに夜勤もした。
 夜勤の晩には、終電車で上野の広小路まで来たが、本郷3丁目行きの電車はもう終っている。湯島神社の石垣をまさぎりながら、暗い切通坂を、いろいろな想いを抱いて上ったことであろう。
 喜之床での2年2か月の特に後半は、啄木文学が再興に燃焼した時代である。この歌は、当時の炊く朴の切実な生活の実感を伝えている。
 文京区内で、最後に残っていた啄木ゆかりの家”喜之床”が、この3月18日に、犬山市の博物館「明治村」に移築、公開された。
 昭和55年(1980)3月  文京区教育委員会


所在地 文京区湯島3-30-1

 社殿は平成7年(1995)総檜木造りとして造営された。平成5年(1993)お木曳き(造営の開始)の神事が行われ、遷座祭(完成)まで2年7か月を要した。



 祭神は菅原道真である。伝承によれば文和4年(1355)湯島の郷民が霊夢によって老松ノ下に勧請したといわれている。その後、文明10年(1478)に太田道灌が社殿を再興し、江戸時代になって、徳川家康はじめ歴代の将軍があつく庇護し隆盛をきわめた。かって、湯島天満宮は”湯島天神”として知られ鳥居前には町もでき人々の往来で賑わった。
 青松が茂る神境に野梅が盛んに香り風雅に富んだ所として古くから名を知られ、その後江戸幕府の朱印地になり、林道春、新井白石等の多くの学者に文神とし崇められました。
 境内の梅は一時枯れましたが、現在では、地元民の篤志により、数百本の梅樹が植えられ、2月から3月に行われる梅まつりにはみごとな花と香りで参拝者、鑑賞者を楽しませています。また梅園の中には、満天下の子女の紅涙をしぼらせた「婦系図」のゆかりの地として里見弴外16名の文筆家ら旧知関係者によって昭和17年(1942)9月7日に泉鏡花の筆塚が設立されました。

銅製表鳥居(都指定文化財) 
 寛文7年(1667)9月創建され、寛文11年(1671)修理した銘がある。下脚部に唐獅子頭部の装飾は鳥居としては特異なものである。

奇縁氷人石 
 嘉永3年(1850)10月江戸で初めて建てられたもので、右側面に「たづぬるかた」左側面に「をしふるかた」とある。迷子探しの石で都内でも貴重なものである。

 平成9年(1997)3月  文京区


 境内には『銅製表鳥居』、『奇縁氷人石』、『小唄顕彰碑』、『講談高座発祥の地碑』、『牛像(撫で牛)』、『瓦斯灯』、『都々逸之碑』、『水平式日時計』、『菅公一千年祭碑』、『天神石坂(天神男坂)』、『天神女坂』、『夫婦坂』、『新派碑』、『努力碑(王貞治)』、『梅園建設碑』、『筆塚』、『復興地蔵尊』、『文房四宝碑』があります。


所在地 文京区本郷1

 神田上水は、井の頭池の湧水を水源とする江戸時代初期につくられた日本最古の都市水道です。
 文京区関口に堰を設けて上水を取り入れ、小日向台下の裾をとおり小石川後楽園の中をぬけ、水道橋の東側で神田川を掛樋(かけひ)でわたし神田・日本橋方面に給水されていました。
  文京区土木部公園緑地課


忍者ブログ [PR]
カウンター
現在の閲覧者数
サイト内検索
アクセス解析
プロフィール
HN:
歴史を未来に伝える。
HP:
性別:
男性