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東京都文京区の歴史
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所在地 文京区湯島3-30-1 (湯島天神) 

 寛文7年(1667)9月創建され、寛文11年(1671)修理した銘がある。下脚部に唐獅子頭部の装飾は鳥居としては特異なものである。





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所在地 文京区湯島3-30-1 (湯島天神) 

  新派碑

 この「新派」の記念碑は新派劇創立90年を迎えた昭和52年(1977)11月1日松竹株式会社と水谷八重子氏により新橋演舞場玄関脇に建てられました。              
 新派の始まりは明治21年(1888)12月自由党荘士角藤定憲が同志を集め大阪の新町庄で「大日本壮士改良演劇会」の旗揚げをしたのが起源とされています。風雪はげしい90年ではありましたが、今日「劇団新派」として隆盛を見ましたその先人たちの苦労を偲び併せて今後の精進を誓うべく記念碑の建立を見た次第です。
 そして新橋演舞場の改築にあたり当湯島天神様のご好意により新派とは深い縁で結ばれております当天神様のご境内に移させていただいたものです。
 なお碑の題字は作家の川口松太郎氏の揮毫により設計は舞台美術家の中嶋八郎氏です。左側の梅樹は昭和31年(1956)新派の名優故花柳章太郎氏の献木によるもので奇しくも記念碑と献木が同じこの場所に並んだ次第です。
 昭和54年(1979)4月26日


所在地 文京区湯島3-30-1 (湯島天神) 

  水平式日時計
 此の日時計は御大典を記念して寺島又吉氏、奥村ぬい氏より鍛冶橋の欄干を軸に日時計を作り奉納されたもので、御参拝の人々から親しまれてきました。戦後の混乱期に放置のまま永い間忘れられておりましたが、今回スイス・ラドー日本総代理店酒田時計貿易株式会社の御好意により、水平式日時計として復元して戴いたものであります。
 昭和52年(1977)3月 湯島神社


所在地 文京区湯島3-30-1 (湯島天神) 





『おんな坂』 北島三郎 書
 原田悠里「おんな坂」歌唱記念


所在地 文京区湯島3-30-1 (湯島天神) 

 三十八段の石段坂である。別名は天神男坂。すぐわきにある、ゆるやかな坂・女坂に対して男坂という。
 江戸時代の書物”御府内備考”によると、湯島神社(天神)参拝のための坂であったが、その後、本郷から上野広小路に抜ける通り道になったという。
 文京区教育委員会 平成3年(1991)3月



所在地 文京区湯島3-30-1 (湯島天神) 

都々逸どどいつは日本語の優雅さ言葉の綾言回しの妙などを巧みに用いて人生の機微を二十六字(七・七・七・五)で綴る大衆の詩である古くより黒岩涙香平山蘆江長谷川伸らの先覚者により普及しわれわれとその流れの中で研鑽を重ねて来た短歌俳句と並ぶ三大詩型の伝統を守り更なる向上と発展を願い各吟社協賛の下詩歌の神の在すこの地に碑を建立する
 平成20年(2008)12月吉日 世話人谷口安閑坊 吉住義之助

東京 しぐれ吟社  茨城 花野吟社  東京 萬友会
岐阜 かがり吟社  東京 遊又会  長野 白樺吟社
東京 眺牛会  愛知 千鳥吟社  京都 おむろ吟社  
東京 老友新聞社


所在地 文京区湯島3-30-1 (湯島天神) 

返り咲く湯島の白梅
 梅園建設碑

この度、湯島神社社境内に梅樹が植えられた由来は第二次世界大戦後明治、大正両時代は立派な梅樹の神苑であったが境内の梅樹がいつか雑木に植えかえられ荒廃していたものを、昭和30年(1955)11月より約三ヶ年半に亘り後記氏子のよいことをする会の湯島公道会々員及後援会々員、同会学習部々員の日夜に及ぶ勤労奉仕作業により近郷より梅の古木を探し譲り受けて移植し湯島神社梅園建設の基となり今日湯島の梅園として東京の名所となる
 昭和48年(1973)12月
 梅園建設碑奉納者代表
 湯島神社大總代 中川宏


所在地 文京区湯島3-30-1 (湯島天神) 

  復興地蔵尊  佐久間達夫氏遺稿より
1923年(大正12年)9月1日の関東大震災は東都に未曾有の惨禍をもたらした
当時の町会長を中心として融資は罹災者の安寧と早期の復興を願い三百年来火伏寺として伝統を持つ心城院の協力を得て災害復興地蔵尊(向って右側)を当地に建立し震災で亡くなった方々の冥福と地元の平和発展を祈った
その後1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲には隣接町会がほとんど焼土と化したなかで当町会は一軒の損失もなくその難を免れた これは「お地蔵さん」の御加護によるものと往時の人々の心に深く刻まれた
左に奉安の尊像は戦後復興の兆しがみえてきた頃のある朝突如出現された 由緒こそ定かでないがお心安らかなそのお顔はいつしか「幸せ」を呼ぶ地蔵尊として親しまれている この二体の地蔵尊は地元天二町会をはじめ近隣地域の大切な守護尊としてその繁栄を見守っています 毎年9月1日には宝前で供養会が営まれます
 天二町会 天二町会リサイクル推進委員一同


所在地 文京区湯島3-30-1 (湯島天神) 

中国より渡来した紙筆墨硯は文房四宝と称せられ読み書き算盤の寺子屋時代から明治の学制発布により高い文化を育てる文具として大きく貢献をしてきた
今や文房具はOA機器にいたる迄その範疇を広げ四宝から至宝に至って戦後の日本国を世界の大国に復興せしめた教育の原動力となった11月3日(文化の日)を文具の日と定め平成元年(1989)を迎えるに当り先人に報恩感謝の念を捧げつヽこヽ学問の神さま湯島大神の境内に文房至宝の碑を建立する
 平成元年(1989)11月3日 文具資料館


所在地 文京区千駄木2-35先 

  藍染川と枇杷橋(合染橋)跡
 文京と台東の区境の道路は、うねうねと蛇行している。この道は現在暗渠となっている藍染川の流路である。
 『新編武蔵風土記稿』によれば、水源は染井の内長池(現在の都営染井霊園の北側の低地)で、ここから西ヶ原へ、さらに、駒込村から根津谷に入る。不忍池から上野の山の三枚橋下(公園入口のところ)で忍川となり、三味線堀から隅田川に注ぐ。
 川の名は、上流から境川・谷戸川(谷田川)・藍染川などと呼ばれた。藍染の名の由来はいろいろある。染井から流れ出るから、川筋に染物屋があり川の色が藍色に染まっていたからなど。
 前方の道路の交わるところに、藍染川に架かる橋があった。江戸時代の『御府内備考』や『新編武蔵風土記稿』によれば、この橋は合染橋、藍染橋、琵琶の橋(のち琵琶橋)などと呼ばれた。また旧八重垣町にも同名の藍染橋があった。
 川は、水はけが悪くよく氾濫したので、大正10年(1921)から暗渠工事が始められ、現在流路の多くは台東区との区境の道路となっている。
 昭和59年(1984) 文京区教育委員会


所在地 文京区湯島1-5-45

  東京医科歯科大学




 東京医科歯科大学は近代教育発祥の地であります。

                                     東京医科歯科大学

所在地 文京区湯島1-4・5 (湯島聖堂東京医科歯科大学) 

  近代教育発祥の地
 江戸時代、このあたりは学問(儒学)の府であった聖堂(孔子廟)の一部、昌平坂学問所(昌平黌)があったところである。
 寛政9年(1797)学問所の学寮、宿舎が建てられ、旗本は藩士の子弟を対象とした教育が施された。
 明治維新後、学問所は新政府に引き継がれ、昌平学校、大学校、東京大学と発展していった。
 明治4年(1871)に文部省が設置され、我が国の近代教育の原点となる施策が展開されることになった。当地には明治5年(1872)師範学校(翌年、東京師範学校と改称)が開校し、その後、隣接地に東京女子師範学校が置かれた。
 東京高等師範学校は明治36年(1903)に大塚窪町に移転し、後に東京教育大学(現筑波大学)となり、東京女子高等師範学校は昭和7年(1932)大塚に移転し、後に新制大学としての発足の折、この場所の地名を校名に冠し、お茶の水女子大学と称し現在に至っている。
 文京区教育委員会 平成19年(2007)3月


                       
                   湯島聖堂


所在地 文京区湯島3

  中坂(仲坂)
 『御府内備考』に、「中坂は妻恋坂天神石坂との間なれば呼名とすといふ」とある。
 江戸時代には、2つの坂の中間に新しい坂ができると中坂と名づけた。したがって中坂は2つの坂より後にできた新しい坂ということになる。
 また、『新撰東京名所図会』には、「中坂は、天神町1丁目4番地と54番地の間にあり、下谷区へ下る急坂なり。中腹に車止めあり」とあり。車の通行が禁止され歩行者専用であった。
 このあたりは、江戸時代から、湯島天神(神社)の門前町として発達した盛り場で、かつては置屋・待合などが多かった。

 まゐり来てとみにあかるき世なりけり
  町屋の人のその人の顔かお(釈迢空しゃくちょうくう

 東京都文京区教育委員会 平成元年(1989)11月

 


所在地 文京区湯島4-1-8

  麟祥院(哲学館跡)
 明治20年(1887)、この麟祥院内に「東洋大学」の前身である「哲学館」が創立された。
 創立者井上円了は、安政5年(1858)越後国(新潟県)の寺に生まれる。明治18年(1885)東京大学文学部哲学科卒業。2年後の明治20年(1887)9月16日、哲学と宗教の啓発のため、私塾「哲学館」を境内の一棟を借りて開校する。哲学館では、授業以外に今日の通信教育ともいうべき講義録を毎月3回発行し哲学の普及につとめた。
 円了は大正8年(1919)大連で逝去。享年61歳。
 東京都文京区教育委員会 平成2年(1990)3月



 境内には『春日局墓』があります。


所在地 文京区湯島4-1-8 (麟祥院)

  春日局墓
 幼名は福。父は明智光秀の重臣斎藤内蔵助利三、母は刑部少輔越後道明の女(むすめ)で、はじめ稲葉佐渡守正成の妻となり、正勝、正定、正利の三子をもうけましたが、慶長9年(1604)3代将軍家光公の乳母として召出され三千石を賜りました。
 家光公が将軍職に就くため献身的な活躍をし、大奥の制度の確立に尽したことは有名です。
 寛永5年(1628)家光公25歳の折、疱瘡にかかられ、諸医の手当にも験(しるし)がなかった時、局は斎戒沐浴して東照大権現の神前に詣で、「将軍の病が平癒したら今後私が病気になっても絶対に薬を服用しません」と祷りました。
 その忠誠心に感応してか、日ならずして家光公の病気が恢復しました。そのため局は身の終る迄針灸薬餌を一切用いなかったと言うことです。
 寛永6年(1629)京都へ上り御所へ参内し、春日局の号を賜り、後水尾天皇より天盃を頂戴しました。寛永9年(1632)再び台命により上洛し、明正天皇より従二位に叙せられました。寛永20年(1643)9月14日、65歳で卒し、当院墓地に葬られました。
 文京区



   春日局の墓  区指定史跡
 春日局(天正7年~寛永20年〔1579~1643〕)は、3代将軍徳川家光の乳母で名はお福。稲葉正成との間に三児をもうけるが、離婚し江戸城大奥に入る。慶長9年(1604)家光(竹千代)が生れるとその乳母となり、生涯家光に仕えた。そして、それが契機となり大奥の制度が確立された。この麟祥院は、寛永元年(1624)春日局隠棲所として創建され、「報恩山 天澤寺」と称した。局の死後、寺はそのまま菩提寺として法名にちなみ「天澤山 麟祥院」となる。
 墓地奥にある局の墓は無縫塔で四方に穴が貫通して特異な形をしている。
 東京都文京区教育委員会 平成2年(1990)3月


所在地 文京区本郷2-40-11

  かねやす
 兼康祐悦という口中医師(歯科医)が、乳香散という歯磨粉を売り出した。大変評判になり、客が多数集め理祭りのように賑わった。(御府内備考による)
 享保15年(1730)大火があり、防災上から町奉行(大岡越前守)は3丁目から江戸城にかけての家は塗屋・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺を禁じ瓦で葺くことを許した。江戸の町並みは本郷まで瓦葺が続き、それからの中仙道(中山道)は板や茅葺きの家が続いた。
 その境目の大きな土蔵のある「かねやす」は目だっていた。
 『本郷も かねやす までは江戸のうち』と古川柳にも歌われた由縁であろう。
 芝神明前の兼康との間に元祖争いが起きた。時の町奉行は、本郷は仮名で芝は漢字で、と粋な判決を行った。それ以来本郷は仮名で「かねやす」と書くようになった。
 文京区教育委員会 昭和61年(1986)3月

 


所在地 文京区本郷4

  本郷薬師
 この地は、真光寺(戦災にあい世田谷に移転)の境内であった。伝えによれば、寛文10年(1670)ここに薬師堂が建立された。
 当時御府内に奇病猖獗しょうけつ)し、病にたおれる者数知れず出たためこの薬師様に祈願して病気が治まったといわれている。本来薬師如来は人間の病苦をいやし、苦悩を除く仏とされている。以来人々に深く信仰された。
 「本郷夜市(よみせ)は著名なり。連夜商人露天を張る。毎月8日・12日・22日は薬師の縁日なり。縁日の夜は、殊に雑踏を極むるなり・・・」(新撰東京名所図絵より)
 本郷薬師の縁日の夜は、植木・雑貨・骨董などの店が並び、飲食店もでて大へん賑やかであった。牛込神楽坂善国時の毘沙門縁日と共に大変有名であった。御堂は戦災で焼失したが、昭和22年(1947)に改築され、さらに昭和53年(1978)に新築された。
 文京区教育委員会 昭和62年(1987)3月



所在地 文京区本郷5-27-11

  法真寺(樋口一葉ゆかりの桜木の宿)
 樋口一葉(1872~1896)の作品「ゆく雲」の中に、次の一文がある。
 「上杉の隣家は何宗かの御梵刹さまにて、寺内広々と桃桜いろいろ植わたしたれば、此方の二階より見おろすに、雲は棚曳く天上界に似て、腰ごろもの観音さま 濡れ仏にておわします。御肩のあたり、膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて・・・」
 文中の御梵刹がこの浄土宗法真寺で、この濡れ仏は、現在、本堂横に安置されている観音様である。こなたの二階とは、境内のすぐ東隣にあった一葉の家である。
 樋口家は明治9年(1876)4月、この地に移り住み、明治14年(1881)までの5年間(一葉4歳~9歳)住んだ。一葉家にとって最も豊かで安定していた時代であった。
 一葉は明治29年(1896)11月23日、旧丸山福山町(現西方1-17-8)で短いが輝かしい生涯を閉じた。その直前の初夏、病床で書いた雑記の中で、この幼少期を過ごした家を「桜木の宿」と呼んで懐かしんだ。「桜木の宿」は法真寺に向って左手にあった。
 文京区教育委員会 平成13年(2001)3月



所在地 文京区音羽1-4-4

  今宮神社御由緒(通称今宮五社)
 当社は元禄10年(1697)10月徳川5代将軍綱吉、犬公方の御生母桂昌院殿の発願により、護国寺御建立の時、同所に京都柴野今宮神社より御分霊を迎えて鎮座した。明治元年(1868)の神仏分離により明治6年(1873)7月音羽9丁目の現在地に遷座した。
 五社今宮とは、伊勢神宮・今宮神社・春日大社・石清水八幡神社・熊野大社を示している。
 創祀以来300年余青柳・音羽・桜木の鎮守神として崇敬され、明治12年(1879)12月にはコレラ伝染除の祭典が執行され、京都今宮神社同様病気平癒の御利益があったとのことである。狛犬は宝暦4年(1754)八丁堀の石工小右エ門作である。



 例大祭 9月第一土・日曜日

 境内末社の天日鷲神社(天日鷲命)紙祖神は明治9年(1876)阿波国忌部神社より音羽の紙漉家一同によって建立されたものであり、11月の酉の日には、商売繁盛の熊手を授与している。
  
 御祭神
天照大御神(伊勢神宮)皇祖神・国土安泰・福徳開運
素盞鳴尊(今宮神社・熊野大社)畏神・疫神・健康神
伊弉冉尊(熊野大社)子孫繁栄
誉田別尊(石清水八幡神社)治山治水・裁縫織物
天児屋根尊(春日大社)災難厄除・出世開運
大国主命(今宮神社)医薬・商売繁盛
事代主命(今宮神社)商売繁盛・金運
速玉大神(熊野大社)誓約事
大宮比売命(春日大社)酒醸・芸事上達・成就
少毘古那命 医薬・医療
猿田彦命 交通安全・旅行安全
菅原道真 学問


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