忍者ブログ
東京都文京区の歴史
[2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。



所在地 文京区本郷4-9-29 (文京ふるさと歴史館)

  庚申塔
江戸時代に盛んだった民間信仰に、60日ごとにめぐってくる庚申(かのえさる)の日、夜眠らずに長寿招福を祈る庚申信仰があります。
この庚申供養塔は、上部に本尊の阿弥陀三尊(種字)を、下部に三猿(見ざる、言わざる、聞かざる)が刻まれています。区内の心光寺(白山5丁目)にあったもので、元禄13年(1700)の銘があります。
PR


所在地 文京区本郷4-9-29 (文京ふるさと歴史館)

  神田上水の石
ここにある石は、神田上水に利用されていた間知石(四角錘の石)と蓋石(長方形の石)です。間知石は巻石通りの安藤坂付近から、蓋石は水道橋にある神田上水遺跡から掘り出されたものです。上水の主幹線で暗渠の部分は、間知石を側面に積み上げ石垣としその上に蓋石をのせて石垣樋にして水を流していました。

 


所在地 文京区本郷4-9-29 (文京ふるさと歴史館)

 水盤は、禊盥、手洗鉢とも呼ばれ、神仏の前に置かれ参拝者が手などを洗い清めるためのものです。
これは古くから行われていた汚れを払うために、川の水で体を清める斎戒沐浴を簡略にしたものといわれています。この水盤は護国寺に伝えられたものです。


所在地 文京区本郷4-9-29 (文京ふるさと歴史館)

  板碑

板碑は、鎌倉時代におこり、室町時代にかけて造立された供養塔です。卒塔婆の一種として生まれました。
この「阿弥陀三尊」板碑は、正面に梵字で、阿弥陀如来(中央)、勢至菩薩(左下)、観音菩薩(右下)が刻まれています。区内の心光寺に伝えられたもので、鎌倉時代のものと考えられ、緑泥片岩が用いられています。


所在地 文京区本郷4-9-29 (文京ふるさと歴史館)

  富士講の碑
江戸時代、盛んであった民間信仰に富士信仰があります。
この「すかも同行」の碑は、護国寺の富士塚のもので、巣鴨(現・千石辺りから滝野川までの旧中山道にそった地域)の富士講から奉納されたものです。講印の「マントウ」は、富士講中興の祖身禄行者の直弟子高田藤四郎を講祖としています。


所在地 文京区大塚4-49・文京区

 文京区立 大塚公園







 大塚公園には『大塚地蔵尊』、『露壇』、『文京区ラジオ体操発祥の地』、『住好稲荷神社』があります。

 


所在地 文京区大塚4-49豊島区 (大塚公園)

 大塚地蔵尊
  庚申塔の由来
 文字塔
延宝2年(1674年) 奉
造立庚申供養二世安楽修
 地蔵
正面三猿寛文5年(1665)
石碑一尊二世為安楽庚申供養成就修施工
 大日如来像
正面三猿 年代不詳
奉造立庚申供養二世安楽所施主19名
 観音
正面三猿梵字有り延宝6年(1678)8月大吉日
奉造立庚申供養二世安楽成施主26名
 

右の庚申供養塔は大塚辻町(現大塚5丁目9番)路傍にそれぞれ300年以前に往時の里人が豊作を祈り二世安楽の祈願をこめて奉造立して供養を続けられ幾代かの世代に守られて今日に及んでいる。昭和20年(1945)不幸戦火に被災しその後大塚公園に移された。
 平成8年(1996)12月吉日 大塚上辻地蔵講(新大塚駅前商店会)

























所在地 文京区大塚4-49豊島区 (大塚公園)

 文京区ラジオ体操発祥の地
文京区のラジオ体操は、昭和4年(1929)1月15日大塚仲町(現大塚4丁目42番)の本伝寺境内に町内有志が集ったのを始まりとする。
その後、隣接各町会の有志が合流し、3月17日、会場を当地に移し、大塚公園ラジオ体操会と称した。
ラジオ体操60年にあたり、これを記念する。
 平成元年(1989)3月27日 文京区教育委員会











所在地 文京区大塚4-49豊島区 (大塚公園)

 露壇
 「露壇」とは、テラスのことです。16世紀かあ17世紀のイタリアでは、地中海に面した丘陵地に裕福な市民のビラ(別荘)が多く造られました。そこでは斜面を階段状に造成した土地に、カスケード(水階段)やテラス(露壇)で結んだ庭を造り、下方に広がる風景を庭の一部に取り入れる(借景)という、独特の庭園の様式が発達し、「イタリア・ルネサンス式」又は「露壇式」と呼ばれています。文京区の公園では、大塚公園の他、元町公園(昭和5年〔1930〕開園)にも同様のデザインがみられます。
 この露壇は昭和3年(1928)に造られ、長い年月の間に老朽化が進みましたが、平成元年(1989)、開園当時の姿に復元しました。
 文京区役所



所在地 文京区目白台2-14-9

日蓮宗
 清土鬼子母神堂(鬼子母神出現所)



雑司が谷七福神
 吉祥天









 清土鬼子母神堂には『三角井戸』、『芭蕉句碑(涼月塚)』、『道標』、『歌碑』があります。


所在地 文京区音羽・大塚

 音羽通り

 護国寺は、5代将軍綱吉の生母桂昌院が天和元年(1681)に建立した。のち将軍家の祈願寺とない、供揃1000人以上で度々参詣したので、将軍御成道として音羽通りは整備された。幕府は音羽町の地番を、桂昌院の生地である京都の一~九条にちなんで1~9丁目とした。また、当時江戸市中いずれの町も城を中心に1丁目を置くならいだったが、音羽町だけは護国寺側を1丁目とした。そこに幕府の配慮がうかがえる。音羽の地番と1箱に9丁入っていた豆腐とをかけ、
「豆腐なら一箱だけの音羽町」(古川柳)

    Gokokuji Temple and Otowa dori Avenue
 Gokokuji Temple was built by Keishoin,mother of the Fifth Shogun Tsunayoshi in 1681.
Later,asa the Shoguns Visited and prayed with 1,000 or more atendants,Otowa dori Avenue was fixed to accomodate such visits.





所在地 文京区向丘1-9-28

浄土真宗本願寺派
 一音寺





 


所在地 文京区向丘1-11-3

曹洞宗
 金龍山 大円寺





 大円寺には『斎藤緑雨墓』、『高島秋帆墓』、『ほうろく地蔵』、『火技中興洋兵開祖碑』、『松野自得句碑』があります。

 


所在地 文京区向丘1-11-3 (大円寺)

 ほうろく地蔵
 ”八百屋お七”にちなむ地蔵尊。天和2年(1682)におきた天和の大火の後、恋仲になった寺小姓恋しさに放火の大罪を犯し、火あぶりの刑を受けた”お七”を供養するために建立されたお地蔵様である。
 寺の由来書によると、お七の罪業を救うために、熱した焙烙(素焼きのふちの浅い土鍋)を頭にかぶり、自ら焦熱の苦しみを受けたお地蔵様とされている。享保4年(1719)ん、お七供養のために、渡辺九兵衛という人が寄進したといわれる。
 その後、このお地蔵様は、頭痛・眼病・耳・鼻の病など首から上の病気を治す霊験あらたかなお地蔵様として有名になった。
 お質が天和の大火の時に避難し、墓もある円乗寺はすぐ近くにある。
 東京都文京区教育委員会 平成元年(1989)3月









所在地 文京区向丘1-11-3 (大円寺)

 高島秋帆墓
 秋帆、1798~1866年(寛永10年~慶応2年)。長崎の人。諱は茂敦、通称四郎太夫。秋帆は号。幕末の砲術家。アヘン戦争で清国が敗れたことを知り幕府に洋式砲術の採用を建議氏、1841年(天保12年)武州徳丸原(板橋区高島平あたり)で洋式砲術演習を行なった。
 翌年、鳥居耀蔵のいわれなき訴えによって投獄され、のち追放に処せられた。ペリー来航とともに許されて、1857年(安政4年)富士見御宝蔵番・兼講部所砲術師範役を命ぜられた。
 文京区教育委員会 平成8年(1996)3月








所在地 文京区向丘1-11-3 (大円寺)

 斎藤緑雨墓
 緑雨、1867年~1904年(慶応3年~明治37年)。三重の人。名は賢。別号を正直正太夫。明治時代の小説家で、戯作風の「油地獄」「かくれんぼ」などで文壇に名をなした。
 かたわら種々の新聞に関係して文筆を振るう。終生妻子を持たず、俗塵に妥協することなく、文学一筋に生きた人である。森鴎外・幸田露伴とともに「めざまし草」の匿名文芸批評執筆者の一人で、樋口一葉の「たけくらべ」を絶賛した。 墓碑銘は幸田露伴書
 文京区教育委員会 平成8年(1996)3月





所在地 文京区向丘1-11-3 (大円寺)

 松野自得句碑

花の匂いは  母のにおいよ  甘えたし
                自得



忍者ブログ [PR]
サイト内検索
アクセス解析
プロフィール
HN:
永山
性別:
男性