忍者ブログ
東京都文京区の歴史
[4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] [13] [14]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。



所在地 文京区向丘2-37-5

曹洞宗
 金峰山 高林寺



 高林寺には『緒方洪庵墓』、『岡麓墓』、『笠井彦乃墓』、『天童藩主織田家墓所』があります。
PR


所在地 文京区向丘2-37-5 (高林寺)

 岡麓墓
 麓は、明治から昭和にかけて活躍した歌人。明治10年(1877)~昭和26年(1951)。区内の本郷(旧金助町)に生まれ、名は三郎、号は麓。
 明治32年(1899)、正岡子規に師事し、子規庵歌会(根岸短歌会)に参加した。その後”アララギ”の歌人として、数々のすぐれた作品を残し、芸術院会員となり、長野県の疎開先で没した。
 歌人として、数々のすぐれた作品を残し、芸術院会員となり、長野県の疎開先で没した。
 "雪の日に 幼き孫が持ち出せば 涙ぐましき江戸名所図会"
  (東京をなつかしんでよんだ歌)
 文京区教育委員会 平成3年(1991)3月



 アララギの歌人



所在地 文京区向丘2-37-5 (高林寺)

文京区指定史跡
 緒方洪庵墓

 洪庵は、江戸時代末期の蘭学者、医学者、教育者。文化7年(1810)~文久3年(1863)現在の岡山県に生まれ、名は章、後に洪庵と改めた。
 大坂、江戸、長崎で蘭学、医学を学び、天保9年(1838)、大坂に、”適々斎塾”(適塾)を開き、診療と研究のかたわら、3千人におよぶ門弟の教育に当たった。この塾から大村益次郎、橋本佐内、福沢諭吉などが輩出した。
 洪庵は、幕府の奥医師として江戸に招かれ、翌年、文久3年(1863)に病没した。
 文京区教育委員会 平成3年(1991)3月




 大村益次郎、橋本左内、福沢諭吉などが学んだ適塾の主催者



 


所在地 文京区向丘2-37-5 (高林寺)

 天童藩主織田家墓所

 天童藩織田家は信長の次男信雄の家系

 


所在地 文京区向丘2-38-22

浄土宗
 天昌山 松翁院 光源寺



 光源寺には『明珍本家墓』、『駒込大観音』、『初代大観音礎石』、『蓬莱梅』、『日支事変戦没軍馬犬鳩慰霊碑』、『庚申待百万遍講中庚申塔』、『大和長谷写十一面観音碑』があります。

 


所在地 文京区向丘2-38-22 (光源寺)

 「駒込大観音」は大和国(奈良県)長谷寺本尊の十一面観音を模して元禄10年(1697)地蔵菩薩の持物である錫杖を持ち、岩の上に立つという独特の様式で、お地蔵さまの慈悲をあわせ持つ観音さまとして、古来人々の信仰を集めてまいりました。『江戸名所図会』の挿絵としても掲載されてる駒込大観音は、7月9日と10日にお参りすると4万6千日分のご利益がある「4万6千日」の縁日、酸漿市として今日にいたるまで賑わいをみせております。
 この駒込大観音は昭和20年(1945)5月25日の東京大空襲により堂宇もろとも灰燼と帰し、そのお姿を拝むことができなくなってしまいました。爾来、私どもはその復興に努めてまいりましたが、ようやく念願がかない再興が相成りました。
 再興された十一面観音は長谷寺式同様に錫杖を右手に持つ像高6メートル余の立像で、仏像彫刻家・西山如雲氏により父・如拙氏の監修のもとで木曽檜を用いた寄木造りで彫刻され、さらに東京都伝統工芸士の藤原茂夫氏により漆塗りと金箔・金粉を施して仕上げられました。また、像の後方壁面には書家・柳田泰雲氏揮毫の「妙法蓮華協経観世音菩薩普門品偈」が陶板に加工して飾られ、堂内を荘厳しております。
 観音堂は楜沢成明氏の設計で、創建当時の土蔵造りの外観を生かし、内部はインドなどの仏教聖地の建築意匠をとりいれています。
 なお、観音堂に向かって右手の阿弥陀如来と千手観音の石像は、駒込大観音を建立した江戸の町人、丸屋吉兵衛の供養塔です。また、境内に点在設置してある石は、創建時の観音像の台座として用いられていたものです。
 観音さまは「観世音菩薩」あるいは「観自在菩薩」と呼ばれ、駒込大観音は十一面観音の名のとおり時に応じたさまざまなお顔で私たちに接し、苦しみ、悩み、悲しみ、怒り、願い、喜びなどをもつあらゆる境遇の人に、宇宙の根源的な生命力を自覚させてくださる菩薩です。
 お参りされるときは「南無大慈大悲観世音菩薩」または「オンマカキャロニキャソワカ」と唱え、観音さまを鑑として自己を見つめなおされるようおすすめいたします。
 ここに、駒込大観音を再興するにあたって浄財を寄進してくださった方々のお名前を記しておきます。
 平成5年(1993)5月吉日 駒込大観音光源寺 二十一世観誉俊匡

 


所在地 文京区向丘2-38-22 (光源寺)

 庚申待百万遍講中庚申塔 
   文京区指定有形民族文化財 平成23年(2011)3月1日指定
 青面金剛立像を主尊とする笠付角柱型の庚申塔である。紀年銘から明和9年(1772)9月に造立されたものと考えられる。基礎の上に塔身・笠、最上部に宝珠を載せる。地面からの高さは250cmを超える、極めて大型の庚申塔である。
 塔身正面に一面六臂の青面金剛立像を浮き彫りし、その下には青面金剛に踏まれた邪鬼や岩座の中に三猿(見ざる・言わざる・聞かざる)を浮き彫りする。塔身向かって身側面および左側面には施主銘「庚申待百万遍講中」や願文が、裏面には「南無阿弥陀仏」の六字名号が刻まれる。また、上段の基礎の四面すべてと下段の基礎の正面には200名を超える人名が刻まれている。これらは、本庚申塔に造立に関係した人々と考えられる。
 本庚申塔は、保存状態が良好であり、かつ造作・規模などの点から極めて優品の庚申塔である。江戸時代中期における庚申信仰のあり方を伝える貴重なものである。
 文京区教育委員会 平成24年(2012)3月

 


所在地 文京区向丘2-38-22 (光源寺)

 初代大観音礎石
 [小松石、神奈川県真鶴原産]
 7年の歳月を費やして、元禄10年(1697)に造立された初代大観音(尊像身丈2丈6尺、約8.5メートル)の下に据え置かれ、中央の四角の穴に大観音の芯棒を差し込み安定を図っていた。礎石(大)と、焼失前の観音堂の基礎石(小)の一部です。
 平成5年(1993)11月吉日 光源寺住職 島田俊匡
 


所在地 文京区向丘2-38-22 (光源寺)

 蓬莱梅
「野梅性(やばいしょう)白梅、樹齢約300年」
 かって、この大観音堂の傍らに梅の古木があったが、昭和20年5月25日の空襲で、観音堂と共に焼失した。
 この度、大観音再建にあたり、代替りの梅の木を各地に探し求めたが、榛名山の麓でこの梅を見付け出し、昔を偲ぶ思いをこめて、ここに移植した。
 蓬莱梅の名称は住居表示改正前、ここの町名であった駒込蓬莱町に因んで名付けたが、明治末頃迄、駒込辺りは梅や桜の花木の産地として有名であった。
 平成5年(1993)11月吉日 光源寺住職 島田 俊匡

 







所在地 文京区向丘2-38-22 (光源寺)

 明珍本家墓
 平安時代、京都九条の甲冑師・鍔工であった宗介は、その技術のすぐれていることに感をうたれた近衛天皇(1141~1155在位)から「明珍」の号を授かったと伝えられている。以来、その一族は明珍姓を名乗るようになり、代々各地で甲冑・鍔作りを生業としていた。
 光源寺本堂に向かって右手奥には、江戸寛政期(1789~1801)に幕府お抱えの甲冑師となった明珍本家の墓所があり、54世宗介、55世宗正、56世宗政、57世宗益、58世宗妙、59世宗邦、宗家、宗胤、60世宗治などが埋葬されている。
 浄土宗 光源寺
 文京区教育委員会 平成8年(1996)3月








所在地 文京区千石3-29-8 (東洋女子高等学校)

 東洋女子学園沿革碑
 明治38年(1905)4月16日東京帝國大学名誉教授帝國学士院会員文学博士村上専精によって創立 専精は学界宗教界に偉大な業績を残した佛教学の先覚者で夙に高僧の蔭に賢母のあることに着眼し佛教精神に基づく女子教育の理想を掲げた その綱領の第一に現時の女子教育に往々欧米皮相の習俗に偏倚して本邦固有の美風を毀損せんとするの弊あるを省み博く彼の長を採ると共に益我が特色を発揮せんことを期す 第二に専ら女子の天性に鑑み女子の品性を保ち又その天職を完うすべき資力を養成せんとすとあり女子は男子に異る天職があり天性の資質を伸長させ有為な女性の育成に努めた 爾来年々校運は隆盛を極めたが昭和20年(1945)戦火を蒙り灰燼に帰した 昭和26年(1951)この地に復興 その間昭和23年(1948)学制改革により東洋女子高等学校と改称 昭和25年(1950)学校法人東洋女子学園を設立 創立80周年を迎え建学の精神のを高揚し光輝ある傳統を継承して茲にその沿革を刻し発展を祈念する
 昭和59年(1984)甲子
 学校法人東洋女子学園理事長村上健蔵撰併書
 東洋女子学園創立80周年記念同窓か寄贈 



所在地 文京区大塚5-40

 希望の坂
 この坂の名は青柳小学校のみなさんからの募集により、昭和53年(1978)につけられました。青柳小学校は大正3年(1914)旧西青柳町に開校し、町名を校名としました。
 小学校は昭和35年(1960)高速道路建設のため、現在地に移転されました。坂上には新校舎記念碑が立ち、坂道は子どもたちが楽しく学べる通学路であり、希望にみちた子どもたちの将来を願って、坂の名を「希望の坂」としました。平成6年(1994)開校80周年記念に「希望の坂」の歌の発表がありました。
 ”希望の坂の上から元気な声が聞こえる 青い空に 白い校舎 明るく歌う声   
 緑に囲まれた 青柳小学校 この坂道は ぼくの宝だ いつまでも忘れない” 
 文京区教育委員会 平成12年(2000)3がつ        













所在地 文京区千駄木5-38-3

臨済宗妙心寺派
 白華山 養源寺

宗  派:臨済宗妙心寺派
開  山:元和2年(1616)
総本山:正法山妙心寺(京都府右京区)
宗  祖:関山慧玄禅師(無相大師)

 縁起
養源寺は、あの有名な春日の局が帰依していた秀岳智禅師が徳川幕府2代将軍徳川秀忠より三千坪の土地を拝領し関山、春日の局の長男稲葉丹後守越智正勝公が開基として創建され、徳川3代将軍家光とも係わりの深い由緒正しい寺院です。
当初は「本郷湯島切通し(現在の湯島)」にありましたが、明暦3年(1657)に明暦の大火ににより類焼。しかし万治元年(1658)には檀家であった稲葉美濃守正則公(稲葉正勝の子)により「駒込千駄木林(現在の住所)」に再建されました。落成の際には黄檗宗の開祖隠元禅師(インゲン豆を日本に伝えた禅僧)を請して入佛供養をしたそうです。
その後は、火災や震災または東京大空襲など幾多の難を乗り越え現在に至ります。
 特色
古き良き江戸情緒を色濃く残す「屋根千」エリアにありながら緑豊かで、山号が示すように桜の木が多く、春には墓参の方々を楽しませてくれます。また境内墓地には著名人のお墓があり、日本の歴史に触れることもでき、毎年夏休みには宮崎県宮崎市清武町か阿小学生の団体が故安井息軒先生の墓参にも来ております。
公共交通機関の便が良いので、ご法事にご列席される方にも非常に喜ばれております。





 養源寺には『安井息軒墓』、『稲葉正勝墓』、『吉田長叔墓』、『西村茂樹墓』、『米山保三郎墓』、『清の墓』があります。

 



所在地 文京区千駄木5-38-3 (養源寺)

  漢学碩匠 安井息軒墓 指定昭和31年(1956)3月3日
 安井息軒は、後に日向飫肥藩(5万1千石)の藩校振徳堂の総裁兼教授となった儒学者安井滄洲の次男として、寛政11年(1799)1月1日飫肥藩清武郷中野(現在の宮崎県清武町大字加納甲3368-1)に諱生まれた。幼名を順作、字を仲平といい、諱を衡、息軒は号の1つである。生家は「安井息軒旧宅」として国指定史跡となっている。
 大阪で篠崎小竹、江戸で昌平黌に入り古賀侗庵、さらに松崎慊堂に師事して考証学を学び、江戸藩邸(現在の千代田区内幸町2丁目)では飫肥藩第一の名君といわれた13代藩主伊藤祐相の侍読を兼ねた。文久2年(1862)塩谷宕陰、芳野金陵とともに昌平黌儒官に登用された。息軒は幼少時から古学派系の父滄洲を師とし、朱子学だけにとらわれず諸説を参考とし、時勢に対する的確な考証に優れ現実政治にも関心が深かった。著書に『海防私議』『論語集説』『毛詩輯疏』『管子纂詁』『左傳輯釋』などがある。明治9年(1876)9月23日土手三番町(現在の千代田区五番町12)の自宅において77歳で死去した。墓碑の篆額「安井息軒先生碑銘」は清国の江蘇省按察使(司法長官)應寶時、撰文は門弟川田甕江、書丹は日下部鳴鶴、鐫刻は谷中の石工廣群鶴である。墓域には後妻槙子、長女須磨子、須磨子の長男小太郎(朴堂)の子健一郎、次男謙助の子千菊の墓石がある。
 平成14年(2002)3月29日 東京都教育委員会
 

        Tomb of Yaui Sokken Haka
 He was born onJanuary 1,1799 in Nakano,Kiyotake village, Obi domain (today's Kiyotakecho,Miyazaki Pref.),as asecond son for a Confician scholar Yasui Soshu,who was later appointed as a president and professor at SHintokudo School esrablished by the Obi domain (today's Nichinan City;of 51,000 koku).His birthplace was designated as a historic site by the state,under the name of Yasui Sokken's former residence.
 In Osaka, hi learned with Shinozaki Shochiku, and entered an educationa institution under a direct control of shogunate, Shoheiko in Edo,where he was further trained with Koga Do-an and Matuzaki Kodo.In 1862,Sokken was appointed as a tutor for Ito Suketomo,the 13th lord of Obi domani and allegedly the greatest ruler in this domain,in  the lord's residence (located in today's lot of 2,Uchisaiwaicho,Chiyoda ward) in Edo.In 1862,he was apponted as an official Confucian teacher at the Shoheiko school,together with Shinoya Toin and Yoshino Kinryo.Sokken was had as his teacher his own father Soshu in the line of Classic Confuscian Learning,focused on commentaries under Han or Tang dynasties and consulted various doctrines not limited to the school of Zhu Xi,so he was excellent in precise verifications of situations of Confusius' days.He was also deeply interested in actual political situation of his days.His works include Presonal Views on Sea Defense and Collected Doctines on Analects of Confusius.He died at the age of 77 on September 23,1876,in his own house at Dotesaanbancho (today's Gobancho in Chiyoda ward). Epograph in seal script on a tomb stele,stating Epigraph for Dr.Yasui Sokken in a work of Ying Pao-shih,a provincial judge (Judge in Chief) in the Jiangsu Province of Qing China,and the main text was compiled by Sokken's discriple Kawada Oko,a tough copy in red ink on the stone for the stele was made by Kusakabe Meikaku,and engraving by Kou Gunkaku,a mason from Yanaka.
 Tokyo Metropolitan Board of Education


所在地 文京区千駄木5-38-3 (養源寺)

3代将軍家光の乳母 春日局の子
 稲葉正勝墓
 慶長2年(1597)~寛永11年(1634)
江戸前期の大名。父は佐渡守正成。母は、徳川3代将軍家光の乳母となった春日局である。
8歳で言え光に召し出され、累進して丹後守に叙せられ、後に小田原8万5千石の城主となった。
葬儀は、正勝を開基とするこの「養源寺」(当時は倚松庵と称した)で営まれ、将軍家光の名代阿部忠秋が弔詞を読んだといわれる。
 平成元年(1989)3月 東京都文京区教育委員会


所在地 文京区千駄木5-38-3 (養源寺)

 小説「坊ちゃん」に登場する清きよの墓(米山家)

 


所在地 文京区千駄木5-38-3 (養源寺)

日本弘道会開祖 泊翁
 西村茂樹墓 
 西村茂樹は、幕末の下総佐倉藩士であり、明治時代の文部官僚として教科書の編修や教育制度の確立に尽力した人物です。
 文政11年(1828)3月12日に江戸辰ノ口(現在の千代田区大手町和田倉門外)の佐倉藩邸に生まれました。儒学を安井息軒、松崎慊堂らに、洋学、砲術を佐久間象山らに学びました。嘉永6年(1853)藩命により佐倉藩の支藩であった佐野藩堀田家に仕え藩政に参画しました。
 明治6年(1873)には、森有礼、福沢諭吉らと明六社を起して、啓蒙思想運動を展開しました。明治9年(1876)には、東京修身学社を創立し、伝統的な日本道徳論を強調して『日本道徳論』『婦女鑑』などを著わし、皇室中心の修身倫理観の基礎を築きます。これは戦前の学校教育に根深く浸透しました。明治12年(1879)から文部省において『古事類苑』の編纂事業を指導しています。明治35年(1902)8月18日、75歳で死去しました。
 平成22年(2010)3月建設 東京都教育委員会

     Nishimura Shigeki Haka
 Nishimura Shigeki served for Sakura doman of Shimo-usa Province at the end of the shogunate,and subsequently,as an official in the Minisry of Culture during the Meiji Era,made great efforts for compolation of school textbooks and establishment of educational systm.He was born on March 12,1828 in the residence of the lords of Sakura domain at Tatsunokuchi in Edo(located outsede of Wadakura Gate,at today's Otemach in Chiyoda ward).
 He learned teachings ofConfucius with Yasui Sokken and Matsuzaki Kodo,as well asa European studies and artillety with Sakuma Shozan.Nishimura,following the order of a lord of his native domain,began in 1853 to serve for lord of Sano domain,the Hotta clan,a branch of Sakura domain,and participated in the domain's government.
 He launched the Meiji 6 Society in 1873,together with Mori Arinori and Fukuzawa Yukichi,in order to develop mobements based on thephilosophy of Enlightenment.Furthermore,Nishimura founded the Tokyo Morality School,while he wrote works including Discourse on Japanese Morality and Mirror of Women.He thus laid foundations for imperial family-centered ideas on morality and ethics.These ideas saw far-reaching effects on the school education until 1945.Since 1879,he directed  compilation works of the Encyclopedia of Ancient Matters in the Ministry of Culture.He died at the age of 75 on August 18,1902.
 Tokyo Metropolitan Board of Edukation


 


所在地 文京区白山1-34-6

天台宗
 南縁山 正徳院 圓乗寺(円乗寺)





 圓乗寺には『八百屋お七の墓』、『八百屋於七地蔵尊』があります。



 


忍者ブログ [PR]
サイト内検索
アクセス解析
プロフィール
HN:
永山
性別:
男性