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東京都文京区の歴史
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所在地 文京区白山1-34-6 (圓乗寺)

 八百屋お七の墓
 お七については、井原西鶴の『好色五人女』など古来いろいろ書かれ語られて異説が多い。お七の生家は、駒込片町(本郷追分など)で、かなりの八百屋であった。天和の大火(天和2年〔1682〕12月、近くの寺院から出火)で、お七の家が焼けて、菩提寺の円乗寺に避難した。その避難中、寺の小姓の佐兵衛(または吉三郎)と恋仲になった。やがて家は再建されて自家にもどったが、お七は佐兵衛に会いたい一心でつけ火をした。放火の大罪で捕らえられたお七は、天和3年(1683)3月29日火安布里の刑に処せられた。数えで16歳であったという。3基の墓石のうち中央は寺の住職が供養のため建てた。右側のは寛政年間(1789~1801)岩井半四郎がお七を演じ好評だったので建立した。左側のは近所の有志の人たちが、270回忌の供養で建立したものである。
 文京区教育委員会 平成14年(2002)3月


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所在地 文京区白山1-34-6 (圓乗寺)

 八百屋於七地蔵尊
 このあたりは昭和39年(1964)8月1日施工の新住居表示によって白山の一部となるまでは「指ヶ谷町」と呼ばれていた。
 その町名の由来については丙戌書上(鳳閣寺支配正宝院)は「町名指谷と相唱候儀、小石川村東の方凡五町程の場所字指谷と古来より申候間、右唱より町名に相成候儀と奉存候」云々と述べている。しかし、「指ヶ谷」の名の起りについては不明である。
 なお、旧指ヶ谷町の東北端に位置したこの南縁山円乗寺は元和6年(1620)宝仙法印によって開山された天台宗の寺院である。境内には芝居などで有名になった八百屋お七の墓がある。寺小姓の左兵衛という美少年と恋におちいったお七は、吉三郎なる村居の無頼の徒にそそのかされて我家に放火した。放火は未遂に終ったが、すぐ吉三郎と共にとらえられ、天和3年(1683)3月29日火刑に処せられた。生年16であったと伝えられている。
 文京区役所・文京区観光協会






所在地 文京区白山1

 浄心寺 
 「小石川指ヶ谷町より白山前町を経て東の方、本郷駒込東片町へ登る坂あり。浄心寺といふ」(新撰東京名所図会)
 浄心寺近くの坂なので、この名がついた。また、坂下に「八百屋於七」の墓所円乗寺があることから「於七坂」の別名もある。
 文京区教育委員会 平成19年(2007)3月









所在地 文京区白山5-33-15

曹洞宗
 醫王山 妙清寺



 


所在地 文京区白山5-36-5

浄土宗
 浄雲院 心光寺





 


所在地 文京区本駒込1-1-5

浄土宗
 増上山 潮泉寺



 潮泉寺には『縁引地蔵尊』があります。


所在地 文京区本駒込1-3-15

浄土宗
 本然山 静閑院 徳性寺

 


所在地 文京区本駒込1-8-13

臨済宗妙心寺派
 瑞祥山 仙龍寺(仙竜寺)
 平安時代後期に盛んに行われた定朝様の像容を示し、割矧造の手法もその時期の典型的なものである。
 後世面部を割って玉眼を入れたため、面相がやや改変されているが、平安時代最末期ないし鎌倉時代初期の作として貴重なものである。
 像高69.6cm ヒノキ材

面部および胸腹部金泥塗 その他漆箔 螺髪彩色 肉髻珠
 文京区教育委員会 昭和56年(1981)1月





 


所在地 文京区本駒込1-20-20

天台宗
 大聖山 南谷寺
 
 この不動尊は、もとは赤目不動尊と言われていた。元和年間(1615~1624)万行和尚が、伊賀国(いまの三重県)の赤目山で、黄金造りの小さな不動明王像を授けられ、諸国をめぐり、いまの動坂の地に庵を結んだ。
 寛永年間(1624~1644)、鷹狩りの途中、動坂の赤目不動尊に立ち寄った三代将軍家光から、現在の土地を賜わり、目赤不動尊とせよとの命を受け、この地に移った。それから目赤不動尊として、いっそう庶民の信仰を集めたと伝えられている。
 不動明王は、本来インドの神で、大日如来の命を受けて悪をこらしめる使者である。剣を持ち、怒りに燃えた形相ながら、お不動さんの名で庶民に親しまれてきた。江戸時代から、目赤、目白、目黄、目青、目黒不動尊は五色不動として、その名が知られている。
 目白不動尊は、戦災で豊島区に移るまで区内の関口2丁目にあった。
 文京区教育委員会 平成3年(1991)3月




 目赤不動尊



















所在地 文京区本駒込3-6

 あさ香社跡(落合直文終焉の地)
 落合直文(歌人・国学者1861~1903)は仙台藩主鮎貝盛房の次男として生まれ、国学者落合直亮の養子となった。
 東京大学を卒業し、第一高等中学校や東京専門学校で教鞭をとりながら、国学の研究に従事した。この間、居を転々としたが、明治26年(1893)旧小石川掃除町から、旧浅嘉町78番地(当地)に移り住んだ。翌明治27年(1894)2月町名にちなんで、「あさ香社(浅香社)」という歌塾を創設し、新しい短歌運動をおこした。社友には、鮎貝塊園(実弟)、与謝野鉄幹、尾上柴舟ら30人ほど集まった。ここから、新誌社(鉄幹)、いかづち会(柴舟)など、和歌革新運動が起り、発展していった。直文は和歌のみでなく、「大楠公」「孝女白菊」などの名作も残している。明治36年(1903)この地で没した。
 「木がらしよなれがゆくへの静けさの おもかげ夢見いざこのよねむ」(直文の辞世)
 文京区教育委員会 平成12年(2000)3月



所在地 文京区本駒込3-7-16

浄土宗
 善龍山 常徳寺






                              おその地蔵

 常徳寺には『身代わり地蔵尊』があります。


所在地 文京区目白台1

 豊坂
 坂の名は、坂下に豊川稲荷社があるところから名づけられた。江戸期この一帯は、大岡主膳正の下屋敷で、明治になって開発された坂である。坂を下ると神田川にかかる豊橋があり、坂を上ると日本女子大学前に出る。
 目白台に住んだ大町桂月は『東京遊行記』に明治末期このあたりの路上風景を、次のように述べている。
 「目白台に上れば、女子大学校程近し。さきに早稲田大学の辺りを通りける時、路上の行人はほとんど皆男の学生なりしが、ここでは海老茶袴をつけたる女学生ぞろぞろ来るをみるにつけ、云々」
 坂下の神田川は井之頭池に源を発し、途中、善福寺川、妙正寺川を合わせて、流量を増し、区の南辺を経て、隅田川に注いでいる。江戸時代、今の大滝橋のあたりに大洗堰を築いて分水し、小日向台地の下を素堀で通し、江戸市民の飲料水とした。これが神田上水である。
 文京区教育委員会 平成12年(2000)3月







 


所在地 文京区目白台2-4-16

 窪田空穂(くぼたうつぼ)終焉の地
 窪田空穂 明治10年(1877)~昭和42年(1967)。本名は通治。空穂は号。明治、大正、昭和の歌人、国文学者。
 その文筆活動は、短歌、小説、随筆、評訳と多彩であった。多数の歌集のほか、万葉集、古今集、新古今集の評訳、源氏物語の現代語訳などを著した。一方早稲田大学教授として多くの人材を育てた。昭和16年(1941)、日本芸術院会員。昭和33年(1958)、文化功労者。
 明治45年(1912)竹早町(現・小石川5丁目)に居住して以来、文京区とのゆかりが深く、この地に46年間住み、昭和42年(1967)4月12日ここで没した。享年89歳。
 文京区教育委員会 平成7年(1995)3月






所在地 文京区目白台1-21-2 (和敬塾)

 前川喜作先生像
祖匤永安の道に和敬の世界原理に則る大学学生の人間形成教育に在りとし昭和30年(1955)私設を拠る茲に和敬塾を創設せられ爾来拮据経営塾生亦切磋塾風を興し塾とも減减教えを体しない害に活躍す寔に昭和教育史上普及の盛事なり仍て我等今塾祖の銅像を建立してその学■に報い偉業を仰ぎこの教育精神を永く後世に遺さんとす
 昭和56年(1981)5月吉日 和敬塾塾とも会献納

 










所在地 文京区目白台1-21-2 (和敬塾)

東京都指定有形文化財
 和敬塾本館(旧細川侯爵邸)
     平成10年3月指定
 財団法人和敬塾は、首都圏のさまざまな大学で学ぶ男子学生のための学生寮です。海外からの留学生も含め五百余名の大学生・大学院生がここで共同生活を送っています。
 約七千坪の敷地には、学部寮生と大学院生寮、ならびに東京都してい有形文化財の本館(旧細川侯爵邸)があります。
 常に理想を求める事業家だった前川喜作(1895~1986)によって、昭和30年(1955)この地に和敬塾が設立されました。「国家社会の各方面において中堅となり先達となり支柱となるべき人材の育成」を創設の目的に掲げています。
 聖徳太子の十七条憲法の第一条「和をもって貴しとなす」から「和」を、第二条「篤く三宝を敬え」から「敬」をとって名づけられました。
 「人間形成、修養の場として」「日常の共同生活をを通じて学生諸君にセルフメイドしてもらう」というのが前川喜作の希いでした。
 毎年百余名の若者が社会に巣立ち、多方面で活躍しています。

 


所在地 文京区目白台1

 小布施坂(こぶせざか)
 江戸時代、鳥羽藩主稲垣摂津守の下屋敷と、その西にあった岩槻藩主大岡主膳正の下屋敷の境の野良道を、宝暦11年(1761)に新道として開いた。その道がこの坂である。
 坂の名は、明治時代に株式の仲買で財をなした小布施新三郎という人の屋敷がこのあたり一帯にあったので、この人の名がとられた。古い坂であるが、その名は明治のものである。
 東京都文京区教育委員会 昭和63年(1988)3月





 


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