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東京都文京区の歴史
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所在地 文京区目白台3-22-17

 塩井雨江・大町桂月 旧居跡

塩井雨江 明治2年(1869)~大正2年(1913)明治・大正期の詩人・国文学者
 東京帝国大学在学中から大町桂月・武島羽衣とともいに三羽鳥といわれ落合直文の「あさ香社」に入って、短歌革新運動を行った。在学中、英国詩人スコット原作の長詩を流麗な七五調に訳した『今様長歌 湖上之美人』を刊行して、擬古派の新進詩人として注目され、新体詩の普及に貢献した。また、桂月、羽衣との合著『美文韻文 花紅葉』を出版、ひろく愛読された。国文学者としては、『新小今和歌集詳解』などを著した。
 明治35年(1902)、日本女子大学校(現日本女子大学)教授となり、国文学を講ずるとともん、女子教育に尽くした。
 当地には明治35年(1902)から住み、明治43年(1910)に奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)の教授として赴任したため転居した。そのあとには、雨江の義弟である大町桂月が移り住んだ。

大町桂月 明治2年(1869)~大正14年(1925)明治・大正期の文芸評論家・詩人・随筆家・国文学者
 明治26年(1893)、東京帝国大学に入学し、在学中から『帝国文学』の編集にあたり、かたわら新体詩や評論を発表した。『黄菊白菊』『筆のしずく』『我が文章』等、多くの著書がある。また、雑誌『太陽』や『中学世界』などに評論、紀行文をのせ、青少年の教育向上に尽くした。
 桂月は、酒と旅を愛し、全国をめぐり、多くの紀行文を書いた。その足跡は満州、朝鮮にもおよんだ。
 大正14年(1925)6月、桂月は青森県蔦温泉で没したが、人間味あふれる生涯で、人生のわび・さびを語り、人柄がしのばれる名文家であった。
 この地には明治43年(1910)から没年まで住んだ。
 ぶんきょうく教育委員会 平成20年(2008)9月

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所在地 文京区目白台3-26-1

 腰掛稲荷神社



 腰掛稲荷神社には『菊花石』、『庚申塔』、『「平田牧場」説明板』があります。


所在地 文京区目白台3-26-1 (腰掛稲荷神社)

 菊花石(きくかせき)  特別天然記念物
産出地   岐阜県根尾村
総重量   1.1トン
高さ     97センチ
幅      85センチ
 稲荷神社社務所

 岐阜県本巣郡根尾村に産する岩石で、割った切面に美しい菊花状の模様が現れる。近年庭石や飾石として珍重されている。赤褐色、朱、紫などの岩石の地肌の中に白や紅色の菊紋が点在する。中には菊紋の直径が20cmに及ぶものもある。京都や秩父地方でも産出されるが、根尾の菊花石のように見事なものは他に例がない。
 平成21年(2009)11月・崇敬者より奉納される









所在地 文京区目白台3-26-1 (腰掛稲荷神社)

 平田牧場
 明治の元勲・山県有朋が出資して、明治5年(1872)~明治6年(1873)、平田貞次郎に英華舎・平田牛乳搾乳所(現在の千代田区三番町)を開設させ、明治10年代には雑司ヶ谷村に牧場を開設しました。
 清戸坂の道ぞい北側に平田牧場の立派な牧舎があり、隣には牛乳の小売店として、旗竿には「官許うしのちち」と、かなとローマ字書きの旗がかかっていました。
 ここ文京区は、昭和22年(1947)に小石川区と本郷区が合併、明治以来文教地区であったことにその名は由来していますが、農業、特に畜産も当区の歴史として1ページを飾っています。
 ペーリー来航で「鎖国令」が解けた事などから、江戸には欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増え、明治10年(1877)の西南の役が終わった頃より、当区にも牛乳搾乳業者が増加しました。
 明治中期の資料によると、本郷弓町「牧牛社」、本郷真砂町「真砂社」、本郷森川町「開墾社」、湯崎新花町「厚生舎」、千駄木林町「楽牛園」、千駄木町「友國社」、駒込上富士前町「長養軒」、駒込曙町「曙舎」、小日向茗荷谷町「駒山牧社」、小石川原町「嶺岡牧社」、小石川久堅町「保生舎」など20軒近い牧場が集中していました。
 平成9年(1997)度JA東京グループ
 農業協同組合法施行50終焉ン記念事業
 

           THE AGRICULTURE OF EDO&TOKYO
                  Hirata Dairy Farm
 In 1870s,Sadajiro Hirata,by the order and investment from Aritom Yamagata,a veteran statesman of the Imperial Restoration of Meiji,opened a dairy at the present Sanban-cho,Chiyoda ward and its stock farm at Zohigaya village.
 Hirata Dairy Farm had a magnificent stable along the northern roadside of Kiyotozaka.Adjacent to the dairy was a milk shop hoisring on the pole a flag of "The Government-Approved Cow Milk" printed in kana and romaji.
 THe record in the middle of Meiji Era tells that nearly twenty dairy farms could be counted in the present Bunkyo ward.




所在地 文京区目白台2・3 

 薬罐坂(夜寒坂)
 江戸時代、坂の東側は松平出羽守の広い下屋敷であったが、維新後上地され国の所有となった。現在の筑波大学付属盲学校一帯にあたる。また、西側には広い矢場があった。当時は大名屋敷と矢場に挟まれた淋しい所であったと思われる。
 やかん坂のやかんとは、野豻とも射干とも書く。犬や狐のことをいう。野犬や狐の出るような淋しい坂道であったのであろう。また、薬罐のような化物が転がり出た、とのうわさから、薬罐坂と呼んだ。夜寒坂のおこりは、この地が「夜さむの里道」と、風雅な呼び方もされていたことによる。
 この坂を挟んで、東西に大町桂月(1869~1925、評論家、随筆家)と、窪田空穂(1877~1967、歌人、国文学者)が住んでいた。
 この道を行きつつみやる谷こえて蒼くもけぶる護国寺の屋根(窪田空穂)
 文京区教育委員会 平成13年(2001)3月







所在地 文京区本駒込1-5-22

臨済宗東福寺派
 天澤山 龍光寺(竜光寺)



 龍光寺には『吉丸一昌墓』、『「早春賦」歌碑』、『金毘羅大権現』、『三宅観瀾墓』、『稲葉迂斎墓』、『恩田鶴城墓』、『栗山潜鋒墓』、『中村元禮墓』、『深見十左衛門墓』、『石合江村墓』、『餘吾古庵墓(硯壽院天元長居士)』、『餘吾古庵墓(仁衛院頣神了存居士)』、『丸亀京極家墓所
 丸亀京極家墓所には『丸亀京極家初代 京極高知 正室 市姫墓』、『丸亀京極家3代 京極高或 正室 墓』、『丸亀京極家4代 京極高矩 正室 墓』、『丸亀京極家4代 京極高矩 養子 京極高迢墓』、『丸亀京極家5代 京極高中 正室 幸子墓』、『丸亀京極家5代 京極高中 子 京極高行墓』、『丸亀京極家6代 京極高朗 長男 京極高美墓』、『丸亀京極家6代 京極高朗 長男 京極高美 正室 満墓』、『丸亀京極家6代 京極高朗 継室 墓』、『京極分家の墓』、『亀山石川家の墓』があります。
唐津小笠原家墓所』、 
 唐津小笠原家墓所には『唐津小笠原家3代 小笠原長祐 正室 墓』、『唐津小笠原家4代 小笠原長重墓』、『唐津小笠原家5代 小笠原長煕墓』、『唐津小笠原家5代 小笠原長煕 正室 墓』、『唐津小笠原家7代 小笠原長恭墓』、『唐津小笠原家8代 小笠原長堯墓』、『唐津小笠原家8代 小笠原長堯 正室 墓』、『唐津小笠原家8代 小笠原長堯 子 小笠原長瑗墓』、『唐津小笠原家8代 小笠原長堯 子 小笠原長瑗 正室 時子墓』、『唐津小笠原家8代 小笠原長堯 子 墓』、『唐津小笠原家9代 小笠原長昌墓』、『唐津小笠原家10代 小笠原長泰墓』、『唐津小笠原家11代 小笠原長会墓』があります。

 


所在地 文京区本駒込1-5-22 (龍光寺)

 稲葉迂斎墓
 

名正義、初名通經、通称 稲葉十左衛門
佐藤直方に学び、唐津藩儒者たり。著書に迂斎文集、和書集外敷多し。寶暦10年(1760)11月10日没。年77。



所在地 文京区本駒込1-5-22 (龍光寺)

 恩田鶴城墓 1739~1804
江戸時代中期~後期の儒者。下総古河藩(茨城県)藩士。備前唐津(佐賀県)に生まれたが、藩主土井利里の転封で古河にうつる。藩校盈科堂学監(校長)原双桂に学び、作事小奉行などを経て盈科堂教授。詩文にも優れた。

 


所在地 文京区本駒込1-5-22 (龍光寺)

 吉丸一昌墓

 歌舞伎に出てくる侠客深見十左衛門、「早春賦」の作詞者

 明治6年(1873)~大正5年(1916)国文学者・作詞家
 現大分県臼杵市で生まれ、苦学して東京帝国大学国文科を卒業した。上京時の一時期、この龍光寺に身を寄せた。
 明治42年(1909)東京音楽学校の教授として招かれ、唱歌の編集に携わったが、徳育的な文部省唱歌に飽きたらず、言文一意の子どもの目線にたった『新作唱歌』全10集を明治45年(1912)から大正3年(1914)にわたり発表した。
 作曲は、東京音楽学校を卒業した若い作曲家を起用し、「おたまじゃくし」「蛍狩」「早春賦」などを作った。これらは、後の童謡運動のさきがけとなるものであった。
 その代表作「早春賦」は『新作唱歌』第3集に収録され、中田章作曲による美しいメロディーにのり、大正2年(1913)に発表された当時から女学生を注しんん歓迎され、今も広く親しまれている。
 大正5年(1916)3月7日、心臓発作のため、駒込動坂町(現千駄木4丁目)の自宅において、43歳の若さで急逝した。今は、縁のあった龍光寺に眠っている。
 文京区教育委員会 平成19年(2007)3月

 






所在地 文京区本駒込1-5-22 (龍光寺)

 金毘羅大権現
龍光寺には嘗て境内(現在の龍光寺公園付近)に「金毘羅大権現」がお祀りされており、根津に花街があった慶応から明治中期に掛けては特に縁日が盛んでありました。
その後花町が州崎に移転されるに至り、規模は小さくなりましたがそれでも昭和の初期までは縁日が続いておりました。
昭和20年(1945)3月、空襲により御堂を焼失致しますが、その際先々代荻洲和尚が戦火の中金毘羅様を肌身離さずお守りし、近年先代道治和尚が御堂の復興を試みましたが体調不例にて遷化し今日に至っておりました。平成19年(2007)6月、檀家総代と協議の結果「金毘羅堂」の復興を発願致しこの度戦後60年余を経て山門正面奥に復興を見るに至りました。
「金毘羅大権現」は海上守護、大漁満足、さらに五穀豊穣、殖産興業、中でも招福除災、家門繁栄のご利益が多大とされております。
また江戸城の裏鬼門を守る「虎ノ門・金刀比羅宮」は四国丸亀城主・京極高和公が讃岐より自身の江戸屋敷の勧請されたものであり、その高和公と唐津小笠原忠知公によって建立されたのが当山でございます。戦火により資料も焼失し定かではございませんが、そのようなご縁からも当山に「鎮守」として金毘羅様がお祀りされたと推察でき、由緒あるまた霊験灼かな金毘羅様をお参り頂くことは、皆様にも大きな御加護のあることと存じます。
今後とも皆様の御参詣をお待ち申し上げております。
 龍光寺







所在地 文京区本駒込1-5-22 (龍光寺)

 栗山潜鋒墓

 「大日本史」を編纂

 寛文11年(1671)~宝永3年(1706)。江戸中期の儒学者。山城国淀の人。潜鋒は号。桑名松雲に学び徳川光圀に招かれ「大日本史」の編集に従事する。のち、彰考館総裁に抜擢された。
 著書に「保健大記」「倭史後編」などがある。
 文京区教育委員会 平成10年(1998)3月


所在地 文京区本駒込1-5-22 (龍光寺)

 三宅観瀾墓
 
 彰孝館総裁を務めた江戸中期の朱子学者
 延宝2年(1674)~享保3年(1718)。江戸中期の朱子学派の儒学者。京都の人。はじめ浅見絅斎、後に木下順庵に学び木門十哲の一人といわれた。元禄12年(1699)徳川光圀に仕えて彰考館に入り「大日本史」の編集に従事する。のち彰考館総裁となり、さらい新井白石の推薦を受けて幕府の儒官となる。著書に「中興鑑見」「烈士報讎録」などがある。
 文京区教育委員会 平成10年(1998)3月




所在地 文京区本駒込1-5-22 (龍光寺)

 深見十左衛門墓(1641~1730)
 近世初期の侠客、始め藤堂家に仕えたが、浪人して男伊達の群に入り江戸市中を横行した。金の義歯、ひろく抜きあげた額ぎわ、異様な鬚髯、朱鞘の大脇差などの異装で世人の目をあつめた。晩年、庵を駒込龍光寺に結び自体と号した。享保15年(1730)3月18日歿す。行年90歳。
 昭和20年(1945)3月の戦災により損傷したので茲に之を改修す。
 昭和53年(1978)4月吉日 山崎實建之
 


所在地 文京区本駒込1-5-22 (龍光寺)

 石合江村墓
名文之、通称文臓。
古畑玉函に学ぶ詩文に名あり。玉函病むやよく勤め、またその交友藤森天山の為に力を盡す。
明治6年(1873)1月1日没。年56。









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