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東京都文京区の歴史
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所在地 文京区本駒込1-6-16

浄土宗
 地久山 仙壽院 天栄寺
 神田および千住とともに、江戸三大市場の一つであり、幕府の御用市場であった。
 起源は、元和年間(1615~1624)といわれている。初めは、近郊の農民が、野菜をかついで江戸に出る途中、天栄寺境内の”さいかちの木”の下で毎朝休むことを例とした。すると、附近の人々が新鮮な野菜を求めて集まったのが起りといわれている。土地の人々は”駒込辻のやっちゃ場”と呼んで親しんだ。また、富士神社一帯は、駒込なすの生産地として有名であり、なす以外に、大根、人参、ごぼうなど、土のついたままの野菜である”土物”が取り引きされたので土物店(つちものだな)ともいわれた。正式名は”駒込青物市場”で、昭和4年(1929)からは”駒込青果市場”と改称した。
 街道筋に点在していた問屋は、明治43年(1901)に高林寺境内(現駒本小学校の敷地の一部)に集結したが、道路の拡幅などで、昭和12年(1937)豊島区へ移転して、巣鴨の豊島青果市場となって現在に至っている。
 文京区教育印会 平成14年(2002)3月








 天栄寺には『駒込土産店縁起碑』があります。


所在地 文京区本駒込1-6-16 (天栄寺)

 駒込土産店縁起碑
この所は凡そ350年前の元和の頃から、駒込辻のやっちゃば、或いは駒込の土物店(だな)と呼ばれて神田、千住と共に江戸三大市場の一つとして昭和12年(1923)まで栄え続けた、旧駒込青果市場の跡である。その昔この辺一帯は百姓地で、この碑の近くに5つ抱え程のサイカチの木があって斉藤伊織という人がこの木の下に稲荷神を勧請して、千栽稲荷と唱えて仕え祀った。近隣のお百姓が毎朝下町へ青物を売りにゆく途すがら、この木の下で休憩するのを常とした。その時たまたま買人があるとその斉藤氏が売り買いの仲立ちをした。そのことが市場の始りであると天栄寺草創期に明らかにされている。その頃この所は仲仙道白山上から間道をもって岩槻街道に通じる辻で、御高札場や番屋それに火の見櫓などがあり、辻の要路であったので漸時西側の天栄寺門前、東側の高林寺門前から浅嘉町一帯にかけて青物を商う店が軒を並べ、他の商家と共にすこぶる繁昌したのである。とりわけこの市場は幕府の御用市場でもあった。明治10年(1877)府令にyって駒込青果市場組合という名称で組合が出来たが誰も市場などと呼ぶ者はなく、辻のやっちゃばとか、土物店と呼び親しんだものである。
土物店とは青物の多くが土の付いたままなのでそれに相応しくつけられた名称である。その後明治34年(1901)警視庁令によって青物取扱者だけ高林寺境内に移され営業を続けてきたが、大正12年(1923)の関東大震災の時には類焼を免れたので組合員と小売商とが相計り、数日にわたって義捐、慰問、焚出しなどして罹災者の救済に尽力した。このように、城北最大の市場として繁栄していたが、中央卸売市場法により、昭和12年(1923)3月25日現在の豊島区巣鴨にある豊島市場に収容されたのである。
遇ぐる太平洋戦争によって、旧駒込青果市場のあった界隈も戦火に遇って全く昔の面影さえとどめず、世人の記憶からも今や忘れられようとしているのを惜しむの余り、浅嘉町の方々と市場関係者ともども相図って、ゆかりのこの地におよその由来を碑に刻み、後世に残すものである。
 昭和38年(1963)3月25日
題字 地又天栄寺
    第22世 住職 道誉正真
 出口鎌吉 撰文  寺門隆夫 書



所在地 文京区本駒込1-7-12

浄土宗
 東光山 定泉寺



 江戸三十三観音霊場9番札所

 上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場19番札所





 定泉寺には『夢現地蔵尊』、『閻魔大法王碑』、『宝篋印塔の六阿弥陀』があります。


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