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東京都文京区の歴史
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所在地 文京区湯島3-30-1 (湯島天神) 

中国より渡来した紙筆墨硯は文房四宝と称せられ読み書き算盤の寺子屋時代から明治の学制発布により高い文化を育てる文具として大きく貢献をしてきた
今や文房具はOA機器にいたる迄その範疇を広げ四宝から至宝に至って戦後の日本国を世界の大国に復興せしめた教育の原動力となった11月3日(文化の日)を文具の日と定め平成元年(1989)を迎えるに当り先人に報恩感謝の念を捧げつヽこヽ学問の神さま湯島大神の境内に文房至宝の碑を建立する
 平成元年(1989)11月3日 文具資料館
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所在地 文京区湯島1-5-45

  東京医科歯科大学




 東京医科歯科大学は近代教育発祥の地であります。

                                     東京医科歯科大学

所在地 文京区湯島1-4・5 (湯島聖堂東京医科歯科大学) 

  近代教育発祥の地
 江戸時代、このあたりは学問(儒学)の府であった聖堂(孔子廟)の一部、昌平坂学問所(昌平黌)があったところである。
 寛政9年(1797)学問所の学寮、宿舎が建てられ、旗本は藩士の子弟を対象とした教育が施された。
 明治維新後、学問所は新政府に引き継がれ、昌平学校、大学校、東京大学と発展していった。
 明治4年(1871)に文部省が設置され、我が国の近代教育の原点となる施策が展開されることになった。当地には明治5年(1872)師範学校(翌年、東京師範学校と改称)が開校し、その後、隣接地に東京女子師範学校が置かれた。
 東京高等師範学校は明治36年(1903)に大塚窪町に移転し、後に東京教育大学(現筑波大学)となり、東京女子高等師範学校は昭和7年(1932)大塚に移転し、後に新制大学としての発足の折、この場所の地名を校名に冠し、お茶の水女子大学と称し現在に至っている。
 文京区教育委員会 平成19年(2007)3月


                       
                   湯島聖堂


所在地 文京区湯島3

  中坂(仲坂)
 『御府内備考』に、「中坂は妻恋坂天神石坂との間なれば呼名とすといふ」とある。
 江戸時代には、2つの坂の中間に新しい坂ができると中坂と名づけた。したがって中坂は2つの坂より後にできた新しい坂ということになる。
 また、『新撰東京名所図会』には、「中坂は、天神町1丁目4番地と54番地の間にあり、下谷区へ下る急坂なり。中腹に車止めあり」とあり。車の通行が禁止され歩行者専用であった。
 このあたりは、江戸時代から、湯島天神(神社)の門前町として発達した盛り場で、かつては置屋・待合などが多かった。

 まゐり来てとみにあかるき世なりけり
  町屋の人のその人の顔かお(釈迢空しゃくちょうくう

 東京都文京区教育委員会 平成元年(1989)11月

 


所在地 文京区湯島4-1-8

  麟祥院(哲学館跡)
 明治20年(1887)、この麟祥院内に「東洋大学」の前身である「哲学館」が創立された。
 創立者井上円了は、安政5年(1858)越後国(新潟県)の寺に生まれる。明治18年(1885)東京大学文学部哲学科卒業。2年後の明治20年(1887)9月16日、哲学と宗教の啓発のため、私塾「哲学館」を境内の一棟を借りて開校する。哲学館では、授業以外に今日の通信教育ともいうべき講義録を毎月3回発行し哲学の普及につとめた。
 円了は大正8年(1919)大連で逝去。享年61歳。
 東京都文京区教育委員会 平成2年(1990)3月



 境内には『春日局墓』があります。


所在地 文京区湯島4-1-8 (麟祥院)

  春日局墓
 幼名は福。父は明智光秀の重臣斎藤内蔵助利三、母は刑部少輔越後道明の女(むすめ)で、はじめ稲葉佐渡守正成の妻となり、正勝、正定、正利の三子をもうけましたが、慶長9年(1604)3代将軍家光公の乳母として召出され三千石を賜りました。
 家光公が将軍職に就くため献身的な活躍をし、大奥の制度の確立に尽したことは有名です。
 寛永5年(1628)家光公25歳の折、疱瘡にかかられ、諸医の手当にも験(しるし)がなかった時、局は斎戒沐浴して東照大権現の神前に詣で、「将軍の病が平癒したら今後私が病気になっても絶対に薬を服用しません」と祷りました。
 その忠誠心に感応してか、日ならずして家光公の病気が恢復しました。そのため局は身の終る迄針灸薬餌を一切用いなかったと言うことです。
 寛永6年(1629)京都へ上り御所へ参内し、春日局の号を賜り、後水尾天皇より天盃を頂戴しました。寛永9年(1632)再び台命により上洛し、明正天皇より従二位に叙せられました。寛永20年(1643)9月14日、65歳で卒し、当院墓地に葬られました。
 文京区



   春日局の墓  区指定史跡
 春日局(天正7年~寛永20年〔1579~1643〕)は、3代将軍徳川家光の乳母で名はお福。稲葉正成との間に三児をもうけるが、離婚し江戸城大奥に入る。慶長9年(1604)家光(竹千代)が生れるとその乳母となり、生涯家光に仕えた。そして、それが契機となり大奥の制度が確立された。この麟祥院は、寛永元年(1624)春日局隠棲所として創建され、「報恩山 天澤寺」と称した。局の死後、寺はそのまま菩提寺として法名にちなみ「天澤山 麟祥院」となる。
 墓地奥にある局の墓は無縫塔で四方に穴が貫通して特異な形をしている。
 東京都文京区教育委員会 平成2年(1990)3月


所在地 文京区湯島1千代田区

  昌平坂
 湯島聖堂東京医科歯科大学のある一帯は、聖堂を中心とした江戸時代の儒学の本山ともいうべき「昌平坂学問所(昌平黌)の敷地であった。そこで学問所周辺の3つの坂をひとしく「昌平坂」と呼んだ。この坂もその1つで、昌平黌を今に伝える坂の名である。
 元禄7年(1694)9月、ここを訪ねた桂昌院(5代将軍徳川綱吉の生母)は、その時のことを次のような和歌に詠んだ。
  萬代の秋もかぎらじ諸ともに まうでゝ折る道ぞかしこき
 平成18年(2006)3月 文京区教育委員会

 


所在地 文京区湯島1-5千代田区

  お茶の水橋(御茶ノ水橋・御茶の水橋)



 


所在地 文京区湯島1

  樹木谷坂
 地獄谷坂とも呼ばれている。この坂は、東京医科歯科大学の北側の裏門から、本郷通りを越えて、湯島1丁目7番の東横の道を北へ、新妻恋坂まで下る坂である。そして、新妻恋坂をはさんで、横見坂に対している。
 『御府内備考』には、「樹木谷3丁目の横小路をいふ」とある。
 尭恵法印の『北国紀行』のなかに「文明19年(1487)正月の末、武蔵野の東の界・・・並びに湯島といふ所あり。古松遥かにめぐりて、しめの内に武蔵のゝ遠望かけたるに、寒村の道すがら野梅盛に薫ず」とある。天神ゆかりの梅の花が咲く湯島神社周辺のようすである。
 徳川家康が江戸入府した当時は、この坂下一帯の谷は、樹木が繁茂していた。その樹木谷に通ずる坂ということで、樹木谷坂の名が生まれた。
 地獄谷坂と呼ばれたのは、その音の訛りである。
 なお、湯島1丁目の地に、明治14年(1881)渡辺辰五郎氏(千葉県長南町出身)が近代的女子技術教育の理想をめざし、和様裁縫伝習所を創立した。その後、伝習所は現東京家政大学へ発展した。
 平成10年(1998)3月 文京区教育委員会

 


所在地 文京区湯島2-11-15

  湯島御霊社
 旧く怨霊の活動を鎮めるため御霊鎮祭が行なわれるようになり、特に著名なもの貞観5年(863)の神泉苑での御霊会とされている。これを契機に華やかな祭礼が営まれるようになった。
 奈良時代から平安時代(710~1192)にかけては都を中心に盛んになり近世にはいると旅の宗教家によって各地方に御霊信仰が説かれて広がりをみせるようになった。六所御霊または八所御霊の名称があるが、御霊は習合する傾向をもち中小御霊は、より強力な御霊に統合されるという教義から出た名称である。



 当御霊社は縁起によると旧く御霊八所神社と呼ばれたが大正12年(1923)に御霊神社と改めた。通俗には「畑の稲荷」と呼ばれ祭神は崇道天皇、井上皇后、他部親王、火雷神、橘逸勢、吉備大臣、文屋宮田丸、藤太夫人の八座で合殿に與財恵門稲荷並に大己貴神を祀っている。
 宝永7年(1710)輪王寺宮の御隠殿を当所に営ませる時に上野より移されたものである。
 現在の社殿は太平洋戦争により灰燼に帰したるものを戦後、仮殿として復興し、さらに今般本社殿の建立となったものであり、例年大祭を毎年9月18日に執り行う。
 1973年(昭和48年)1月 文京区 文京区観光協会

 


所在地 文京区湯島2-21-6

真言宗
 霊雲寺派総本山
  宝林山 大悲心院 霊雲寺
れいうんじ



 
真言宗霊雲寺派総本山で、宝林山大悲心院霊雲寺と称する。
 5代将軍徳川綱吉は、深く帰依した浄巌覚彦を開山として徳川家のため、天下泰平、武運長久の祈願寺として、元禄4年(1691)創建した。



 本堂のほかに、惣門・潅頂堂・地蔵堂・大元堂・観音堂・鐘楼・経蔵および学寮を有し、周囲に土塀を巡らした江戸時代の名刹であった。大正12年(1923)の関東大震災により焼失し、その後の仮本堂も戦災で焼失した。現在の本堂は昭和51年(1976)に再建された。
 開山浄厳律師は、著書二十九種、八十五巻に及ぶ学僧でもあり、供養儀式(悟りを得るための修法)にも精通し、また大衆布教の1つとして、結縁潅頂(諸尊仏と縁を結び、仏の道に入りやすくする)という儀式を盛んに行った。
 今に残る梵鐘は、創建と同時に鋳造されたもので、浄厳律師の撰文の銘がある。



・国指定文化財・諸尊集会図・日吉山王曼荼羅図・十六羅漢図
・弥勒曼荼羅図・天帝図(5点)
・区指定文化財・大威徳明王像図・五秘密像図(2点)
 文京区教育委員会 昭和56年(1981)3月


 


所在地 文京区湯島2

  横見坂よこみざか横根坂よこねざか

 『御府内備考』に、「右坂は町内より湯島三組町え上り候坂にて、当町並本郷新町家持に御座候・・・・里俗に横根坂と相唱申候」とある。
 坂下の蔵前通りの新妻恋坂の一帯は、かつて樹木谷といわれ、樹木が茂っていた。この谷から湯島台に上るこの坂の左手に富士山が眺められた。
 街の古老は、西横に富士山がよく見えて、この坂を登るとき、富士を横見するところから、誰いうとなく横見坂と名づけられたといっている。
 坂の西側一帯は、旧湯島新花町である。ここに明治30年(1897)頃、島崎藤村が住み、ここから信州小諸義塾の教師として移って行った。
 その作品『春』の中に、
「湯島の家は俗に大根畠と称えるところに在った。・・・・大根畠は麹の香のする町で」とある。ローム層の台地は、麹室には最適で『文政書上』には、百数十軒の麹屋が数えられている。
 昭和56年(1981)3月 文京区教育委員会

 


所在地 文京区湯島3-2-6



  嬬恋神社(妻恋神社)と夢枕
 その昔、日本武尊の東征のおり、三浦半島から房総へ渡るとき、大暴風雨に会い、妃の弟橘姫が身を海に投げて海神を鎮め、尊の一行を救った。
 途中尊が、湯島の地に滞在したので、郷民は、尊の妃を慕われる心をあわれんで、尊と妃を祭ったのだこの神社の起りと伝える。後、稲荷明神(倉稲魂命)を祭った。
 江戸時代、妻恋稲荷と呼ばれ、関東惣社と名のり王子稲荷と並んで参詣人が多かった。また、正月2日の晩に枕の市兄敷いて寝ると、よい夢を見るという縁起物の木版刷りの「夢枕」が売り出された。
 ”お宝お宝と大音声に呼ばわったり”(宮島五丈原)「福寿鶴亀」と「七福神の乗合宝船」の2枚の夢枕は、万治年間(1658~1661)に創案され当社が版権を所有していた。版木は、戦災で焼けたと思われていたが昭和52年(1977)12月摺り師の家で見つかった。
 幻の夢枕は、関係者によって日の目を見て、売り出されるようになった。
 文京区教育委員会 昭和59年(1984)3月




所在地 文京区湯島3千代田区

  嬬恋坂(妻恋坂)
 大超坂・大潮坂・大長坂・大帳坂と別名を多く持つ坂である。
 『新撰東京名所図会』に、「妻恋坂は妻恋神社の前なる坂なり。大超坂とも云ふ。本所霊山寺開基の地にて、開山大超和尚道徳高かりしを以て一にかく唱ふといふ」とある。
 この坂が「妻恋坂」と呼ばれるようになったのは、坂の南側にあった霊山寺が明暦の大火(1657)後浅草に移り、坂の北側に妻恋神社(妻恋稲荷)が旧湯島天神町1丁目あたりから移ってきてからであろう。
 文京区教育委員会 平成21年(2009)7月

 


所在地 文京区湯島3

  三組坂みくみざか
 元和2年(1616)徳川家康が駿府で亡くなり、家康お付きの中間ちゅうげん・小人こびと・駕籠方かごかたの「三組」の者は江戸へと召し返され、当地に屋敷地を賜った。駿河から帰ったので、里俗にこのあたり一帯を駿河町と呼んだ。
 その後、元禄9年(1696)三組の御家人拝領の地である由来を大切にして、町名を「三組町」と改めた。
 この町内の坂であることから「三組坂」と名づけられた。
 元禄以来、呼びなれた三組町は、昭和40年(1965)4月以降、今の湯島3丁目となった。
 文京区教育委員会 平成19年(2007)3月

 


所在地 文京区湯島2・3

  清水坂
 江戸時代、このあたりに、名僧で名高い大超和尚の開いた霊山寺があった。明暦3年(1657)江戸の町の大半を焼きすくす大火がおこり、この名刹も焼失し、浅草へ移転した。



 この霊山寺の敷地は、妻恋坂から神田神社(神田明神)にかかる広大なものであった。嘉永6年(1853)の『江戸切絵図』を見ると、その敷地跡のうち、西の一角に島田弾正という旗本屋敷がある。明治になって、その視木々は清水精機会社の所有となった。
 大正時代に入って、湯島天満宮お茶の水の間の往き来が不便であったため、清水精機会社が一部土地を待ちに提供し、坂道を整備した。
 そこで、町の人たちが、清水家の徳をたたえて、「清水坂」と名づけ、坂下に清水坂の石柱を建てた。
 文京区教育委員会 平成14年(2002)3月

 


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