東京都文京区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 文京区湯島4-1-8 (麟祥院) 春日局墓 幼名は福。父は明智光秀の重臣斎藤内蔵助利三、母は刑部少輔越後道明の女(むすめ)で、はじめ稲葉佐渡守正成の妻となり、正勝、正定、正利の三子をもうけましたが、慶長9年(1604)3代将軍家光公の乳母として召出され三千石を賜りました。 家光公が将軍職に就くため献身的な活躍をし、大奥の制度の確立に尽したことは有名です。 寛永5年(1628)家光公25歳の折、疱瘡にかかられ、諸医の手当にも験(しるし)がなかった時、局は斎戒沐浴して東照大権現の神前に詣で、「将軍の病が平癒したら今後私が病気になっても絶対に薬を服用しません」と祷りました。 その忠誠心に感応してか、日ならずして家光公の病気が恢復しました。そのため局は身の終る迄針灸薬餌を一切用いなかったと言うことです。 寛永6年(1629)京都へ上り御所へ参内し、春日局の号を賜り、後水尾天皇より天盃を頂戴しました。寛永9年(1632)再び台命により上洛し、明正天皇より従二位に叙せられました。寛永20年(1643)9月14日、65歳で卒し、当院墓地に葬られました。 文京区 春日局の墓 区指定史跡 春日局(天正7年~寛永20年〔1579~1643〕)は、3代将軍徳川家光の乳母で名はお福。稲葉正成との間に三児をもうけるが、離婚し江戸城大奥に入る。慶長9年(1604)家光(竹千代)が生れるとその乳母となり、生涯家光に仕えた。そして、それが契機となり大奥の制度が確立された。この麟祥院は、寛永元年(1624)春日局隠棲所として創建され、「報恩山 天澤寺」と称した。局の死後、寺はそのまま菩提寺として法名にちなみ「天澤山 麟祥院」となる。 墓地奥にある局の墓は無縫塔で四方に穴が貫通して特異な形をしている。 東京都文京区教育委員会 平成2年(1990)3月 PR |
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永山
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