東京都文京区の歴史
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× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 文京区向丘2-35-7 (栄松院) 薩摩浄雲墓 文禄4年(1595)~寛文12年(1672)。江戸初期の浄瑠璃太夫。上方の出身。通称虎屋次郎右衛門。別に江戸次郎右衛門、薩摩太夫といった。晩年に剃髪して浄雲と号した。 浄瑠璃を修め、寛永初年の頃江戸に来て「江戸薩摩」をおこす。当時、江戸随一の人形遣い小平太を擁し、操りの妙と人形衣装の華美と舞台装置の良さで好評をはくした。 文京区教育委員会 平成10年(1998)3月 所在地 文京区向丘2-35-7 (栄松院) 初代 松本幸四郎墓 延宝2年(1674)~享保15年(1730)。江戸中期の歌舞伎俳優。下総国の生まれ。 屋号は初代のみ大和屋。はじめは久松小四郎といって女形を勤める。のち本姓の松本に戻り立役となり幸四郎と改名した。 二代目市川団十郎と並ぶ名優のひとりと評された。 文京区教育委員会 平成10年(1998)3月 所在地 文京区向丘2-37-5 駒本小学校五十周年記念碑 この記念碑は、駒本小学校の沿革を改めて知って頂こうという思いから企画され、三宅石材店様のご協力で建てられました。 土台部分の煉瓦は、現在地に移転する以前、今の都立向丘高校の所にあった頃の校舎の一部です。 長い歴史を知っている煉瓦を礎に沿革が刻まれた御影石の様に駒本小学校が、これからも光り輝いていく事を願っています。 PTA・同窓会一同 所在地 文京区向丘2-37-5 (高林寺) 岡麓墓 麓は、明治から昭和にかけて活躍した歌人。明治10年(1877)~昭和26年(1951)。区内の本郷(旧金助町)に生まれ、名は三郎、号は麓。 明治32年(1899)、正岡子規に師事し、子規庵歌会(根岸短歌会)に参加した。その後”アララギ”の歌人として、数々のすぐれた作品を残し、芸術院会員となり、長野県の疎開先で没した。 歌人として、数々のすぐれた作品を残し、芸術院会員となり、長野県の疎開先で没した。 "雪の日に 幼き孫が持ち出せば 涙ぐましき江戸名所図会" (東京をなつかしんでよんだ歌) 文京区教育委員会 平成3年(1991)3月 アララギの歌人 所在地 文京区向丘2-37-5 (高林寺) 文京区指定史跡 緒方洪庵墓 洪庵は、江戸時代末期の蘭学者、医学者、教育者。文化7年(1810)~文久3年(1863)現在の岡山県に生まれ、名は章、後に洪庵と改めた。 大坂、江戸、長崎で蘭学、医学を学び、天保9年(1838)、大坂に、”適々斎塾”(適塾)を開き、診療と研究のかたわら、3千人におよぶ門弟の教育に当たった。この塾から大村益次郎、橋本佐内、福沢諭吉などが輩出した。 洪庵は、幕府の奥医師として江戸に招かれ、翌年、文久3年(1863)に病没した。 文京区教育委員会 平成3年(1991)3月 大村益次郎、橋本左内、福沢諭吉などが学んだ適塾の主催者 所在地 文京区向丘2-38-22 浄土宗 天昌山 松翁院 光源寺 光源寺には『明珍本家墓』、『駒込大観音』、『初代大観音礎石』、『蓬莱梅』、『日支事変戦没軍馬犬鳩慰霊碑』、『庚申待百万遍講中庚申塔』、『大和長谷写十一面観音碑』があります。 所在地 文京区向丘2-38-22 (光源寺) 「駒込大観音」は大和国(奈良県)長谷寺本尊の十一面観音を模して元禄10年(1697)地蔵菩薩の持物である錫杖を持ち、岩の上に立つという独特の様式で、お地蔵さまの慈悲をあわせ持つ観音さまとして、古来人々の信仰を集めてまいりました。『江戸名所図会』の挿絵としても掲載されてる駒込大観音は、7月9日と10日にお参りすると4万6千日分のご利益がある「4万6千日」の縁日、酸漿市として今日にいたるまで賑わいをみせております。 この駒込大観音は昭和20年(1945)5月25日の東京大空襲により堂宇もろとも灰燼と帰し、そのお姿を拝むことができなくなってしまいました。爾来、私どもはその復興に努めてまいりましたが、ようやく念願がかない再興が相成りました。 再興された十一面観音は長谷寺式同様に錫杖を右手に持つ像高6メートル余の立像で、仏像彫刻家・西山如雲氏により父・如拙氏の監修のもとで木曽檜を用いた寄木造りで彫刻され、さらに東京都伝統工芸士の藤原茂夫氏により漆塗りと金箔・金粉を施して仕上げられました。また、像の後方壁面には書家・柳田泰雲氏揮毫の「妙法蓮華協経観世音菩薩普門品偈」が陶板に加工して飾られ、堂内を荘厳しております。 観音堂は楜沢成明氏の設計で、創建当時の土蔵造りの外観を生かし、内部はインドなどの仏教聖地の建築意匠をとりいれています。 なお、観音堂に向かって右手の阿弥陀如来と千手観音の石像は、駒込大観音を建立した江戸の町人、丸屋吉兵衛の供養塔です。また、境内に点在設置してある石は、創建時の観音像の台座として用いられていたものです。 観音さまは「観世音菩薩」あるいは「観自在菩薩」と呼ばれ、駒込大観音は十一面観音の名のとおり時に応じたさまざまなお顔で私たちに接し、苦しみ、悩み、悲しみ、怒り、願い、喜びなどをもつあらゆる境遇の人に、宇宙の根源的な生命力を自覚させてくださる菩薩です。 お参りされるときは「南無大慈大悲観世音菩薩」または「オンマカキャロニキャソワカ」と唱え、観音さまを鑑として自己を見つめなおされるようおすすめいたします。 ここに、駒込大観音を再興するにあたって浄財を寄進してくださった方々のお名前を記しておきます。 平成5年(1993)5月吉日 駒込大観音光源寺 二十一世観誉俊匡 所在地 文京区向丘2-38-22 (光源寺) 庚申待百万遍講中庚申塔 文京区指定有形民族文化財 平成23年(2011)3月1日指定 青面金剛立像を主尊とする笠付角柱型の庚申塔である。紀年銘から明和9年(1772)9月に造立されたものと考えられる。基礎の上に塔身・笠、最上部に宝珠を載せる。地面からの高さは250cmを超える、極めて大型の庚申塔である。 塔身正面に一面六臂の青面金剛立像を浮き彫りし、その下には青面金剛に踏まれた邪鬼や岩座の中に三猿(見ざる・言わざる・聞かざる)を浮き彫りする。塔身向かって身側面および左側面には施主銘「庚申待百万遍講中」や願文が、裏面には「南無阿弥陀仏」の六字名号が刻まれる。また、上段の基礎の四面すべてと下段の基礎の正面には200名を超える人名が刻まれている。これらは、本庚申塔に造立に関係した人々と考えられる。 本庚申塔は、保存状態が良好であり、かつ造作・規模などの点から極めて優品の庚申塔である。江戸時代中期における庚申信仰のあり方を伝える貴重なものである。 文京区教育委員会 平成24年(2012)3月 所在地 文京区向丘2-38-22 (光源寺) 初代大観音礎石 [小松石、神奈川県真鶴原産] 7年の歳月を費やして、元禄10年(1697)に造立された初代大観音(尊像身丈2丈6尺、約8.5メートル)の下に据え置かれ、中央の四角の穴に大観音の芯棒を差し込み安定を図っていた。礎石(大)と、焼失前の観音堂の基礎石(小)の一部です。 平成5年(1993)11月吉日 光源寺住職 島田俊匡 所在地 文京区向丘2-38-22 (光源寺) 蓬莱梅 「野梅性(やばいしょう)白梅、樹齢約300年」 かって、この大観音堂の傍らに梅の古木があったが、昭和20年5月25日の空襲で、観音堂と共に焼失した。 この度、大観音再建にあたり、代替りの梅の木を各地に探し求めたが、榛名山の麓でこの梅を見付け出し、昔を偲ぶ思いをこめて、ここに移植した。 蓬莱梅の名称は住居表示改正前、ここの町名であった駒込蓬莱町に因んで名付けたが、明治末頃迄、駒込辺りは梅や桜の花木の産地として有名であった。 平成5年(1993)11月吉日 光源寺住職 島田 俊匡 所在地 文京区向丘2-38-22 (光源寺) 明珍本家墓 平安時代、京都九条の甲冑師・鍔工であった宗介は、その技術のすぐれていることに感をうたれた近衛天皇(1141~1155在位)から「明珍」の号を授かったと伝えられている。以来、その一族は明珍姓を名乗るようになり、代々各地で甲冑・鍔作りを生業としていた。 光源寺本堂に向かって右手奥には、江戸寛政期(1789~1801)に幕府お抱えの甲冑師となった明珍本家の墓所があり、54世宗介、55世宗正、56世宗政、57世宗益、58世宗妙、59世宗邦、宗家、宗胤、60世宗治などが埋葬されている。 浄土宗 光源寺 文京区教育委員会 平成8年(1996)3月 |
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