東京都文京区の歴史
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× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 文京区向丘1-11-3 (大円寺) ほうろく地蔵 ”八百屋お七”にちなむ地蔵尊。天和2年(1682)におきた天和の大火の後、恋仲になった寺小姓恋しさに放火の大罪を犯し、火あぶりの刑を受けた”お七”を供養するために建立されたお地蔵様である。 寺の由来書によると、お七の罪業を救うために、熱した焙烙(素焼きのふちの浅い土鍋)を頭にかぶり、自ら焦熱の苦しみを受けたお地蔵様とされている。享保4年(1719)ん、お七供養のために、渡辺九兵衛という人が寄進したといわれる。 その後、このお地蔵様は、頭痛・眼病・耳・鼻の病など首から上の病気を治す霊験あらたかなお地蔵様として有名になった。 お質が天和の大火の時に避難し、墓もある円乗寺はすぐ近くにある。 東京都文京区教育委員会 平成元年(1989)3月 所在地 文京区向丘1-11-3 (大円寺) 高島秋帆墓 秋帆、1798~1866年(寛永10年~慶応2年)。長崎の人。諱は茂敦、通称四郎太夫。秋帆は号。幕末の砲術家。アヘン戦争で清国が敗れたことを知り幕府に洋式砲術の採用を建議氏、1841年(天保12年)武州徳丸原(板橋区高島平あたり)で洋式砲術演習を行なった。 翌年、鳥居耀蔵のいわれなき訴えによって投獄され、のち追放に処せられた。ペリー来航とともに許されて、1857年(安政4年)富士見御宝蔵番・兼講部所砲術師範役を命ぜられた。 文京区教育委員会 平成8年(1996)3月 所在地 文京区向丘1-11-3 (大円寺) 斎藤緑雨墓 緑雨、1867年~1904年(慶応3年~明治37年)。三重の人。名は賢。別号を正直正太夫。明治時代の小説家で、戯作風の「油地獄」「かくれんぼ」などで文壇に名をなした。 かたわら種々の新聞に関係して文筆を振るう。終生妻子を持たず、俗塵に妥協することなく、文学一筋に生きた人である。森鴎外・幸田露伴とともに「めざまし草」の匿名文芸批評執筆者の一人で、樋口一葉の「たけくらべ」を絶賛した。 墓碑銘は幸田露伴書 文京区教育委員会 平成8年(1996)3月 所在地 文京区向丘1-13-6 (正行寺) とうがらし地蔵 この寺の境内にまつられている地蔵尊は「とうがらし地蔵」と呼ばれ、咳の病に霊験あらたかなことで知られている。『江戸砂子』に「当寺境内に浅草寺久米平内のごとき石像あり。・・・仁王座禅の相をあらはすと云へり。」とある。 寺に伝わる元文3年(1738)の文書によれば、僧の「覚宝院」が、元禄15年(1702)人々の諸願成就を願い、また咳の病を癒すため自ら座禅姿の石像を刻み、ここに安置したという。以来人々は「覚宝院」が”とうがらし酒”を好んだことから、とうがらしを供え諸願成就を願ってきた。 尊像は、昭和20年(1945)5月の空襲にあり、その後再建されたものである。なお「とうがらし地蔵」とともに名の知られた「とうがらし閻魔」は、焼失したままとなっている。 江戸時代、「旧岩槻街道」の道筋にあたるこの辺りは、植木屋が多かったところから「小苗木縄手」それがかわって「うなぎ縄手」と呼ばれていた。 東京都文京区教育委員会 平成元年(1989)11月 所在地 文京区向丘2-25-10 曹洞宗 大智山 海蔵寺 身禄行者の墓 身禄行者(寛文11年〔1671〕~享保18年〔1733〕)は、食行行者ともいい、江戸庶民を中心にさかえた富士信仰の中興の祖として知られた人。 庶民の苦しみを救おうと、富士山七合五勺の烏帽子岩近くの石室で断食入定(食を絶って死ぬこと)した身禄の教えは、広く庶民の信仰をあつめた。身禄行者の骨が分骨埋葬されたといわれる墓の墓碑は、富士山をかたどった溶岩の山上に建てられている。左にある「参食行身禄■」とある小さな墓は初めの墓である。 ちなみに富士信仰は「富士講」として組織され、江戸市中の寺社境内に「小富士」が築かれた。区内にある「富士神社」は今に残る富士信仰の史跡である。 東京都文京区教育委員会 平成2年(1990)3月 海蔵寺には『身禄行者墓』、『立原翠軒夫婦の墓』、『第10代横綱 雲龍久吉墓』、『都家かつ江之碑』、『句碑』があります。 |
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永山
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