東京都文京区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 文京区向丘1-13-6 (正行寺) とうがらし地蔵 この寺の境内にまつられている地蔵尊は「とうがらし地蔵」と呼ばれ、咳の病に霊験あらたかなことで知られている。『江戸砂子』に「当寺境内に浅草寺久米平内のごとき石像あり。・・・仁王座禅の相をあらはすと云へり。」とある。 寺に伝わる元文3年(1738)の文書によれば、僧の「覚宝院」が、元禄15年(1702)人々の諸願成就を願い、また咳の病を癒すため自ら座禅姿の石像を刻み、ここに安置したという。以来人々は「覚宝院」が”とうがらし酒”を好んだことから、とうがらしを供え諸願成就を願ってきた。 尊像は、昭和20年(1945)5月の空襲にあり、その後再建されたものである。なお「とうがらし地蔵」とともに名の知られた「とうがらし閻魔」は、焼失したままとなっている。 江戸時代、「旧岩槻街道」の道筋にあたるこの辺りは、植木屋が多かったところから「小苗木縄手」それがかわって「うなぎ縄手」と呼ばれていた。 東京都文京区教育委員会 平成元年(1989)11月 所在地 文京区向丘2-25-10 曹洞宗 大智山 海蔵寺 身禄行者の墓 身禄行者(寛文11年〔1671〕~享保18年〔1733〕)は、食行行者ともいい、江戸庶民を中心にさかえた富士信仰の中興の祖として知られた人。 庶民の苦しみを救おうと、富士山七合五勺の烏帽子岩近くの石室で断食入定(食を絶って死ぬこと)した身禄の教えは、広く庶民の信仰をあつめた。身禄行者の骨が分骨埋葬されたといわれる墓の墓碑は、富士山をかたどった溶岩の山上に建てられている。左にある「参食行身禄■」とある小さな墓は初めの墓である。 ちなみに富士信仰は「富士講」として組織され、江戸市中の寺社境内に「小富士」が築かれた。区内にある「富士神社」は今に残る富士信仰の史跡である。 東京都文京区教育委員会 平成2年(1990)3月 海蔵寺には『身禄行者墓』、『立原翠軒夫婦の墓』、『第10代横綱 雲龍久吉墓』、『都家かつ江之碑』、『句碑』があります。 所在地 文京区向丘2-35-7 (栄松院) 薩摩浄雲墓 文禄4年(1595)~寛文12年(1672)。江戸初期の浄瑠璃太夫。上方の出身。通称虎屋次郎右衛門。別に江戸次郎右衛門、薩摩太夫といった。晩年に剃髪して浄雲と号した。 浄瑠璃を修め、寛永初年の頃江戸に来て「江戸薩摩」をおこす。当時、江戸随一の人形遣い小平太を擁し、操りの妙と人形衣装の華美と舞台装置の良さで好評をはくした。 文京区教育委員会 平成10年(1998)3月 所在地 文京区向丘2-35-7 (栄松院) 初代 松本幸四郎墓 延宝2年(1674)~享保15年(1730)。江戸中期の歌舞伎俳優。下総国の生まれ。 屋号は初代のみ大和屋。はじめは久松小四郎といって女形を勤める。のち本姓の松本に戻り立役となり幸四郎と改名した。 二代目市川団十郎と並ぶ名優のひとりと評された。 文京区教育委員会 平成10年(1998)3月 所在地 文京区向丘2-37-5 駒本小学校五十周年記念碑 この記念碑は、駒本小学校の沿革を改めて知って頂こうという思いから企画され、三宅石材店様のご協力で建てられました。 土台部分の煉瓦は、現在地に移転する以前、今の都立向丘高校の所にあった頃の校舎の一部です。 長い歴史を知っている煉瓦を礎に沿革が刻まれた御影石の様に駒本小学校が、これからも光り輝いていく事を願っています。 PTA・同窓会一同 |
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永山
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