東京都文京区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 文京区本郷1-2・6 忠弥坂ちゅうやざか 坂の上あたりに丸橋忠弥まるばしちゅうやの槍の道場があって、忠弥が慶安事件で捕えられた場所にも近いということで、この名がつけられた。 道場のあった場所については諸説がある。 ”慶安事件”は、忠弥が由井正雪とともに、慶安4年(1651)江戸幕府の転覆を企てて失敗におわった当時の一大事件であった。 忠弥の名は、浄瑠璃や歌舞伎の登場人物としても有名である。 平成元年(1989)3月 東京都文京区教育委員会 所在地 文京区本郷1-5-11 金刀比羅宮東京分社 金刀比羅宮東京分社境内には『水道橋稲荷神社』があります。 松平賴重候下屋敷跡 この地一帯(東京都立工芸高校 宝生能楽堂 金刀比羅宮東京分社)は高松松平家下屋敷のあったところである。 高松松平家は松平賴重を藩祖とし徳川光圀とは兄弟の関係にあった。爾来現13代の賴明氏に到るまで松平家は、四国にあって教育と経済の振興に力を尽して来た。 特筆すべきは12代賴寿氏で、氏は貴族院議長(1937年→1944年)として名声をはくし、わが国の議会政治史上に一点をとどめ、他方大正大震災の後、旧本郷区の要請で本郷学園を創設し、わが国教育面に大いなる貢献をした。 昭和60年(1985)5月 文京歴史研究会 近藤英明 松本弁吉 宝生英雄 浪越徳治郎 久留島忠 小林光二 荒川忠親 田中行成 田代喜一郎 及川省吉 石坂岩雄 岡崎道彦 茅島敬史 成沢偉三郎 所在地 文京区本郷1-8-3 浄土宗 嶺松山 弘願院 昌清寺しょうせいじ 徳川忠長と昌清寺 当寺は浄土宗嶺松山弘願院昌清寺と称され、元和元年(1615)の創建である。 開基は朝倉きよ(お清の方)、駿河大納言忠長(家光の弟)の乳母である。父2代将軍秀忠と母お江は忠長を寵愛し、忠長に次期将軍職を譲ろうと考えた。しかし、兄家光の乳母春日局が家康に直訴するに及んで、将軍は家光に決まった。忠長は駿府城主となったが、なお大坂城主を要請したため家光の怒りにふれ、領地は没収され、高崎城に幽閉され自害した。寛永10年(1633)忠長28歳であった。 忠長死後、忠長夫人お昌の方(信長の曾孫)は剃髪し松孝院と号した。乳母のお清も剃髪し、お昌の一字をもらい、昌清尼と称した。松孝院は忠長の菩提を弔うにあたり公儀に配慮し、自分に代わって乳母のお清に昌清寺で忠長の供養をさせた。 平成17年(2005)3月 文京区教育委員会 所在地 文京区湯島1 樹木谷坂 地獄谷坂とも呼ばれている。この坂は、東京医科歯科大学の北側の裏門から、本郷通りを越えて、湯島1丁目7番の東横の道を北へ、新妻恋坂まで下る坂である。そして、新妻恋坂をはさんで、横見坂に対している。 『御府内備考』には、「樹木谷3丁目の横小路をいふ」とある。 尭恵法印の『北国紀行』のなかに「文明19年(1487)正月の末、武蔵野の東の界・・・並びに湯島といふ所あり。古松遥かにめぐりて、しめの内に武蔵のゝ遠望かけたるに、寒村の道すがら野梅盛に薫ず」とある。天神ゆかりの梅の花が咲く湯島神社周辺のようすである。 徳川家康が江戸入府した当時は、この坂下一帯の谷は、樹木が繁茂していた。その樹木谷に通ずる坂ということで、樹木谷坂の名が生まれた。 地獄谷坂と呼ばれたのは、その音の訛りである。 なお、湯島1丁目の地に、明治14年(1881)渡辺辰五郎氏(千葉県長南町出身)が近代的女子技術教育の理想をめざし、和様裁縫伝習所を創立した。その後、伝習所は現東京家政大学へ発展した。 平成10年(1998)3月 文京区教育委員会 所在地 文京区湯島2-11-15 湯島御霊社 旧く怨霊の活動を鎮めるため御霊鎮祭が行なわれるようになり、特に著名なもの貞観5年(863)の神泉苑での御霊会とされている。これを契機に華やかな祭礼が営まれるようになった。 奈良時代から平安時代(710~1192)にかけては都を中心に盛んになり近世にはいると旅の宗教家によって各地方に御霊信仰が説かれて広がりをみせるようになった。六所御霊または八所御霊の名称があるが、御霊は習合する傾向をもち中小御霊は、より強力な御霊に統合されるという教義から出た名称である。 当御霊社は縁起によると旧く御霊八所神社と呼ばれたが大正12年(1923)に御霊神社と改めた。通俗には「畑の稲荷」と呼ばれ祭神は崇道天皇、井上皇后、他部親王、火雷神、橘逸勢、吉備大臣、文屋宮田丸、藤太夫人の八座で合殿に與財恵門稲荷並に大己貴神を祀っている。 宝永7年(1710)輪王寺宮の御隠殿を当所に営ませる時に上野より移されたものである。 現在の社殿は太平洋戦争により灰燼に帰したるものを戦後、仮殿として復興し、さらに今般本社殿の建立となったものであり、例年大祭を毎年9月18日に執り行う。 1973年(昭和48年)1月 文京区 文京区観光協会 所在地 文京区湯島2-21-6 真言宗 霊雲寺派総本山 宝林山 大悲心院 霊雲寺れいうんじ 真言宗霊雲寺派総本山で、宝林山大悲心院霊雲寺と称する。 5代将軍徳川綱吉は、深く帰依した浄巌覚彦を開山として徳川家のため、天下泰平、武運長久の祈願寺として、元禄4年(1691)創建した。 本堂のほかに、惣門・潅頂堂・地蔵堂・大元堂・観音堂・鐘楼・経蔵および学寮を有し、周囲に土塀を巡らした江戸時代の名刹であった。大正12年(1923)の関東大震災により焼失し、その後の仮本堂も戦災で焼失した。現在の本堂は昭和51年(1976)に再建された。 開山浄厳律師は、著書二十九種、八十五巻に及ぶ学僧でもあり、供養儀式(悟りを得るための修法)にも精通し、また大衆布教の1つとして、結縁潅頂(諸尊仏と縁を結び、仏の道に入りやすくする)という儀式を盛んに行った。 今に残る梵鐘は、創建と同時に鋳造されたもので、浄厳律師の撰文の銘がある。 ・国指定文化財・諸尊集会図・日吉山王曼荼羅図・十六羅漢図 ・弥勒曼荼羅図・天帝図(5点) ・区指定文化財・大威徳明王像図・五秘密像図(2点) 文京区教育委員会 昭和56年(1981)3月 所在地 文京区湯島2 横見坂よこみざか(横根坂よこねざか) 『御府内備考』に、「右坂は町内より湯島三組町え上り候坂にて、当町並本郷新町家持に御座候・・・・里俗に横根坂と相唱申候」とある。 坂下の蔵前通りの新妻恋坂の一帯は、かつて樹木谷といわれ、樹木が茂っていた。この谷から湯島台に上るこの坂の左手に富士山が眺められた。 街の古老は、西横に富士山がよく見えて、この坂を登るとき、富士を横見するところから、誰いうとなく横見坂と名づけられたといっている。 坂の西側一帯は、旧湯島新花町である。ここに明治30年(1897)頃、島崎藤村が住み、ここから信州小諸義塾の教師として移って行った。 その作品『春』の中に、 「湯島の家は俗に大根畠と称えるところに在った。・・・・大根畠は麹の香のする町で」とある。ローム層の台地は、麹室には最適で『文政書上』には、百数十軒の麹屋が数えられている。 昭和56年(1981)3月 文京区教育委員会 所在地 文京区湯島3-2-6 嬬恋神社(妻恋神社)と夢枕 その昔、日本武尊の東征のおり、三浦半島から房総へ渡るとき、大暴風雨に会い、妃の弟橘姫が身を海に投げて海神を鎮め、尊の一行を救った。 途中尊が、湯島の地に滞在したので、郷民は、尊の妃を慕われる心をあわれんで、尊と妃を祭ったのだこの神社の起りと伝える。後、稲荷明神(倉稲魂命)を祭った。 江戸時代、妻恋稲荷と呼ばれ、関東惣社と名のり王子稲荷と並んで参詣人が多かった。また、正月2日の晩に枕の市兄敷いて寝ると、よい夢を見るという縁起物の木版刷りの「夢枕」が売り出された。 ”お宝お宝と大音声に呼ばわったり”(宮島五丈原)「福寿鶴亀」と「七福神の乗合宝船」の2枚の夢枕は、万治年間(1658~1661)に創案され当社が版権を所有していた。版木は、戦災で焼けたと思われていたが昭和52年(1977)12月摺り師の家で見つかった。 幻の夢枕は、関係者によって日の目を見て、売り出されるようになった。 文京区教育委員会 昭和59年(1984)3月 所在地 文京区湯島3 三組坂みくみざか 元和2年(1616)徳川家康が駿府で亡くなり、家康お付きの中間ちゅうげん・小人こびと・駕籠方かごかたの「三組」の者は江戸へと召し返され、当地に屋敷地を賜った。駿河から帰ったので、里俗にこのあたり一帯を駿河町と呼んだ。 その後、元禄9年(1696)三組の御家人拝領の地である由来を大切にして、町名を「三組町」と改めた。 この町内の坂であることから「三組坂」と名づけられた。 元禄以来、呼びなれた三組町は、昭和40年(1965)4月以降、今の湯島3丁目となった。 文京区教育委員会 平成19年(2007)3月 所在地 文京区湯島2・3 清水坂 江戸時代、このあたりに、名僧で名高い大超和尚の開いた霊山寺があった。明暦3年(1657)江戸の町の大半を焼きすくす大火がおこり、この名刹も焼失し、浅草へ移転した。 この霊山寺の敷地は、妻恋坂から神田神社(神田明神)にかかる広大なものであった。嘉永6年(1853)の『江戸切絵図』を見ると、その敷地跡のうち、西の一角に島田弾正という旗本屋敷がある。明治になって、その視木々は清水精機会社の所有となった。 大正時代に入って、湯島天満宮とお茶の水の間の往き来が不便であったため、清水精機会社が一部土地を待ちに提供し、坂道を整備した。 そこで、町の人たちが、清水家の徳をたたえて、「清水坂」と名づけ、坂下に清水坂の石柱を建てた。 文京区教育委員会 平成14年(2002)3月 所在地 文京区本郷1-18~22・本郷2-18 壱岐坂いきざか 「壱岐坂は御弓町へのぼる坂なり。彦坂壱岐守屋敷ありしゆへの名なりといふ。按に元和年中(1615~1623)の本郷の図を見るに、此坂の右の方に小笠原壱岐守下屋敷ありて吉祥寺に隣れり。おそらくは此小笠原よりおこりし名なるべし。」(改撰江戸志) 御弓町については「慶長・元和の頃御弓同心組屋敷となる。」とある。(旧事茗話) 文京区 昭和48年(1973)3月 <碑文> 壱岐坂の碑(壱岐殿坂の碑) 江戸時代には、社寺や大名屋敷は、ほとんど移転することもなかったので交通の重要な目印となていました。この坂は昔、この地にあった小笠原壱岐守の下屋敷にちなんで壱岐殿坂と呼ばれていました。 当時、小笠原家は、九州佐賀県唐津六万石の大名でした。壱岐坂は、白山通り(本郷1丁目20・22の間)から上り、東洋女子短大の所で通称大横町へ至る細い坂道です。 |
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永山
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